真理を愛することは、真空を持ちこたえること、その結果として死を受け入れることを意味する。
真理は、死の側にある。
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何ごとにおいても、どんな特別な目的があろうと、それを超えて、むなしく望むこと、真空を望むこと。
なぜなら、私たちにとって、想像することも、定義することもできない善とは、しょせん真空なのだから。
だが、この真空はどんな充満状態よりも、満ち溢れている。
そこまで達すれば、難場を切り抜けたのだ。神が真空を満たしているのだから。
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報いがどうしてもいる、自分が与えた等価値のものをぜひとも受け取らねばという気持ち。
だが、そういう気持ちを無理にも押さえつけて、真空を生じさせておくと、
なにか誘いの風みたいなものが起こって、超自然的な報いが不意にやってくる。
この真空がそれを招きよせるのである。
負い目を許すことについても同じである。
(他人が私たちに加えた害についてばかりではなく、他人にしてやった善についても)。
ここでもまた、自分自身の中に真空を受け入れることになる。
自分自身の中に真空を受け入れることは、超自然的なことである。
報いられることのない行為をするためのエネルギーは、どこで見つければいいのか。
エネルギーは、どこか別なところからやってこなければならない。
だが、しかし、そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。
何かしら絶望的なことが生じなければならない。まず、真空が作り出されねばならない。真空、暗い夜。
人から賞賛されたり、同情されたりすると(特にこの二つのことが一緒に起こると)、
現実のエネルギーが与えられる。だが、そういうものは、なしですまさなければならない。
自然的なものであれ、超自然的なものであれ、なんの報いもないひとときを過ごす必要がある。
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真空を満たしたり、苦悩を和らげたりするような信仰は、退けるべきこと。
不死への信仰も。あらゆる出来事に神意の働きかけをみる信仰も。
要するに、ふつう宗教の中に求められるいっさいの<慰め>を退けるべきこと。
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どんな状況においても、真空を満たす想像力の働きを停止させると、真空が生じる(心貧しい人)。
どんな状況においても、想像力は真空を満たすことができる。
だからこそ、ごく普通の人が、囚人、奴隷、売笑婦などになり、
何かと辛酸をなめながらも、相変わらず清められずにいるのである。
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真空を満たすものとしての想像力が働きだすのを、自分の内部でいつも一時中断すること。
どんな真空でもいい、受け入れるならば、どんな宇宙の一撃に襲われても、宇宙を愛するのをやめることはあるまい。
何ごとが起ころうとも、宇宙は充満していると確信できる。
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真空を満たすものとしての未来。
ときには、過去もまた、この役割を果たす。(私は…だった。私は…をした、など)。
だが、場合によっては、不幸に陥って、幸福の思い出が耐えられないことがある。
そんなときは、不幸な人は、自分の過去をも奪い取られているのである。
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真空を求めてはならない。
なぜなら、真空を満たすために超自然的なパンを当てにするのは神をこころみることになるだろうから。
真空をのがれるのもいけない。
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真空は、最高度の充満である。だが、人間にはこのことを知る権利がない。
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人間に罪を犯させる可能性のあるものとは、真空である。
あらゆる罪は、種々の真空を満たそうとするこころみである。
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感受性の中にある真空が、感受性を超えたところへ運んでいく。
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神に対して忠実であるのは、困難なことであった。それは、真空への忠実さであった。
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人に哀願するのは、自分だけの価値体系を、
他人の精神の中に力ずくででも入り込ませようとする絶望的なこころみである。
神に哀願するのは、それとは反対で、神的な価値を自分の魂の中に入りこませようとするこころみである。
それは、自分が執着している価値を必死になって考えるというのとは全然違って、
自分の内部に真空を持ちこたえることである。
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無であり、真空である苦しみの中に、
いちだんと充実した実在を見てとることができるようにならなければならない。
同様に、さらにますます死を愛することができるために、生を深く愛さねばならない。
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偶像がないときにはまず、毎日、あるいはほとんど毎日、真空状態のままで苦しみ抜かねばならない。
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他人に害を加えることは、他人から何かを受け取ろうとすることだ。
何をか。害を加えたときに、何を得たのか。
自分が大きくなったのだ。自分が広くなったのだ。
他人の中に真空を作り出すことによって、自分の中の真空を満たしたのだ。
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誰かが私たちに害を加えたとき、私たちの中にはさまざまな反応が生じる。
復讐したいという願いは、何よりも本質的な均衡回復への願いである。
こういう次元とは違った次元で均衡を求めること。自分ひとりで、この極限にまで行きつかねばならない。
そこで、真空に接するのだ。
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自分の手中にある力をあらんかぎり全部使おうとしないのは、真空を持ちこたえることである。
それは、あらゆる自然法則に反したことであり、恩寵だけにそれが可能である。
恩寵は満たすものである。だが、恩寵を迎え入れる真空のあるところにしか、入っていけない。
そして、その真空を作るのも、恩寵である。
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あらゆる真空は、(受け入れられないかぎり)憎しみ、刺々しさ、苦悩、恨みなどを生じさせる。
自分の憎むものに対して、災いが降りかかればよいと思い、そのさまを想像してみると、ふたたび均衡が取り戻される。
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真空を満たすものとしての想像力は、もともと偽物しか提供しない。それは第三の次元を取り去ってしまう。
なぜなら、ただ実在するものだけが、三つの次元の中にはまっているのだからである。
想像力は、多様の関係を取り去ってしまう。
(重力と恩寵)
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