わたしがこの地上のすべての事物を偽りの善であるとして、こうしたものから自分の願望をそらすならば、
自分は真理のうちにあるという絶対的で無条件な確信がわたしにはある。
それらは善ではない、虚偽に与するのでないかぎりこの地上のなにひとつ善とはみなされえない、
この地上のすべての目的はおのずから滅びさるということをわたしは知っている。
そうしたものから遠ざかること、ただそれだけだ。ほかにはなにも必要ない。これこそ愛徳の充溢である。
(カイエ4)
この世には善はないこと、この世で善と見えているものもすべて、有限であり、限定され、消耗するものであり、
一たび消耗すれば、必然性が赤裸な姿を見せることは、私たちがみな知っていることである。
人は誰しも、人生のうちに何度か、この世には善はないとはっきり認めねばならなかった時を、おそらく経験しているはずである。
ところが、人は、この真実が見えてくると、それを嘘で覆い隠してしまうのである。
それどころか、悲しみの中に病的な快楽を求めつつ、
この真実をそのとおりと告白するのを喜んでいるかのように見える連中がたくさんいる始末である。
彼らは、この真実を真正面から見つめるのは、一秒間以上は到底耐えられなかったのである。
人間は、しばらくのあいだでも、この真実を真正面から見つめるのは、死の危険があることを感じている。その通りである。
このことを知るのは、“つるぎ”よりももっと恐ろしい。肉の死よりももっと恐怖すべき死をもたらすのである。
時が経つにつれ、私たちの中にあり、私たちが「自我」と言っているものをことごとく、殺してしまうのである。
これに耐えるためには、生命よりも真実のほうを愛さなければならない。そのような人々こそ、
プラトンの言い方によるなら、「魂を尽くして、過ぎ行くものから遠ざかる」人々である。
-
十四歳の時、私は思春期の底なしの絶望の一つに落ち込みました。
自分の生来の能力の凡庸さに苦しみ、真剣に死ぬことを考えました。
パスカルの才能に比較されるほどの少年期、青年期を持ちました私の兄の異常な天賦の才能が、
どうしても私に私の凡庸さを意識させずにはおかないのでした。
外的な成功が得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけが入ることのできる、
真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできないということを口惜しく思っていたのでした。
真理のない人生を生きるよりは死ぬほうがよいと思っておりました。
数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、しかも永遠に、
いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無に等しい者であっても、
もしその人間が真理を欲し、真理に到達すべく絶えず注意をこめて努力するならば、
天才にだけ予約されているあの真理の王国に入れるのだという確信を抱いたのです。
たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の眼には見えないことがあっても、
この人もまた、かくして一人の天才となるのです。
この同じ確信が、十年間、注意深い努力を私に続けさせてくれたのです。
真理という名のもとに、私は、美、徳、そしてあらゆる種類の善を含めておりました。
私が抱いておりました確信、それは、パンを望む時に石を与えられることはないということでありました。
(神を待ちのぞむ)
真理に対する愛から夢想を放棄することは、
それはまさに狂熱の愛をもって夢想が与えるすべての富を投げ打ち、<真理>の化身に従うことなのです。
それこそまさに自分自身の十字架を担うことにほかなりません。
夢想が子供っぽくて外見はどんなに無害に見えようと、あるいはそれが真面目なもので、
美術、愛、友情(多くの場合、宗教も含めて)に関連を持ち、そのために外見は非常に尊敬すべきものに見えようと、
要するにどんな形態をとっていようと、夢想は虚偽であるということを、片時も忘れてはならないのです。
夢想は愛を排除します。愛は現実のものだからです。
(ジョー・ブスケへの手紙)
われわれは天空の、すなわち神の子であること。
この地上において、われわれは超越的および超自然的真理の忘却のうちにあること。
そして、救済の条件は渇きであること。
忘却されたこの真理を渇き求め、その渇きのあまり死ぬほどの思いをせねばならないこと。
ついには渇きは確実に癒されること。
この水をはげしく渇き求めるなら、そして、神の子として水を飲むことがわれわれに許されていると悟るなら、
水はわれわれに与えられるだろうということ。
(ギリシアの泉)
真理への愛というのは不適切な表現だ。真理は愛の対象とはならない。真理は対象ではない。
人が愛するのは、なんにせよ存在するもの、考えうるもの、それゆえ真理または誤謬の契機となりうるものだ。
ひとつの真理とは存在するなにかについての真理である。
真理は実在の輝きなのだ。愛の対象は真理ではなく実在なのである。
真理を欲するとは、実在との直接的な接触を欲することだ。
なんらかの実在との接触を欲するとは、その実在を愛することだ。
(根をもつこと)
私がおかした罪の一つ一つを神の恵みとみなすこと。
私の心の底にひそみ隠れている本質的な欠陥が、この日、このとき、この状況において、
部分的に私の目の前にはっきりと示されたというのは、恵みである。
私は、人間の思考の視線がそれをとらえうるかぎり、
この私の欠陥が残りなくあらわに示されるようにと望みも切に願っている。
この欠陥から癒されるようにと願うのではない。
そうではなく、この欠陥が癒える見込みがのないものであっても、私は真理のうちにいたいと願うのである。
-
なんの留保もなく、死を受け入れる思いがないところには、真理への愛はない。
-
真理を愛することは、真空を持ちこたえること、その結果として死を受け入れることを意味する。
真理は、死の側にある。
(重力と恩寵)
|