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十四歳の時、私は思春期の底なしの絶望の一つに落ち込みました。
自分の生来の能力の凡庸さに苦しみ、真剣に死ぬことを考えました。
パスカルの才能に比較されるほどの少年期、青年期を持ちました私の兄の異常な天賦の才能が、
どうしても私に私の凡庸さを意識させずにはおかないのでした。
外的な成功が得られないことを残念に思っていたのではなく、本当に偉大な人間だけが入ることのできる、
真理の住む超越的なこの王国に接近することがどうしてもできないということを口惜しく思っていたのでした。
真理のない人生を生きるよりは死ぬほうがよいと思っておりました。
数ヶ月にわたる地獄のような心の苦しみを経たあとで、突然、しかも永遠に、
いかなる人間であれ、たとえその天賦の才能がほとんど無に等しい者であっても、
もしその人間が真理を欲し、真理に到達すべく絶えず注意をこめて努力するならば、
天才にだけ予約されているあの真理の王国に入れるのだという確信を抱いたのです。
たとえ才能がないために、外見的にはこの素質が人の眼には見えないことがあっても、
この人もまた、かくして一人の天才となるのです。
この同じ確信が、十年間、注意深い努力を私に続けさせてくれたのです。
真理という名のもとに、私は、美、徳、そしてあらゆる種類の善を含めておりました。
私が抱いておりました確信、それは、パンを望む時に石を与えられることはないということでありました。

(シモーヌ・ヴェイユ / 神を待ちのぞむ)




真理に対する愛から夢想を放棄することは、
それはまさに狂熱の愛をもって夢想が与えるすべての富を投げ打ち、<真理>の化身に従うことなのです。
それこそまさに自分自身の十字架を担うことにほかなりません。
夢想が子供っぽくて外見はどんなに無害に見えようと、あるいはそれが真面目なもので、
美術、愛、友情(多くの場合、宗教も含めて)に関連を持ち、そのために外見は非常に尊敬すべきものに見えようと、
要するにどんな形態をとっていようと、夢想は虚偽であるということを、片時も忘れてはならないのです。
夢想は愛を排除します。愛は現実のものだからです。

(シモーヌ・ヴェイユ / ジョー・ブスケへの手紙)




われわれは天空の、すなわち神の子であること。
この地上において、われわれは超越的および超自然的真理の忘却のうちにあること。
そして、救済の条件は渇きであること。
忘却されたこの真理を渇き求め、その渇きのあまり死ぬほどの思いをせねばならないこと。
ついには渇きは確実に癒されること。
この水をはげしく渇き求めるなら、そして、神の子として水を飲むことがわれわれに許されていると悟るなら、
水はわれわれに与えられるだろうということ。

(シモーヌ・ヴェイユ / ギリシアの泉)




私がおかした罪の一つ一つを神の恵みとみなすこと。
私の心の底にひそみ隠れている本質的な欠陥が、この日、このとき、この状況において、
部分的に私の目の前にはっきりと示されたというのは、恵みである。
私は、人間の思考の視線がそれをとらえうるかぎり、
この私の欠陥が残りなくあらわに示されるようにと望みも切に願っている。
この欠陥から癒されるようにと願うのではない。
そうではなく、この欠陥が癒える見込みがのないものであっても、私は真理のうちにいたいと願うのである。

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なんの留保もなく、死を受け入れる思いがないところには、真理への愛はない。

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真理を愛することは、真空を持ちこたえること、その結果として死を受け入れることを意味する。
真理は、死の側にある。

(シモーヌ・ヴェイユ / 重力と恩寵)