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神が、守銭奴における財宝のように、意味に満ちたものとなってしまったら、 神は存在しないのだと強く自分に何度も言い聞かせること。 たとえ神が存在しなくても、自分は神を愛しているのだと切に感じられること。 神は、守銭奴が財宝を愛するような仕方で愛されまいとして、暗い夜の闇に隠れて、退いてしまわれる。

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神は、自分をしか愛することができない。 私たちは、他のものをしか愛することができない。

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純粋に愛することは、隔たりへの同意である。 自分と、愛するものとのあいだにある隔たりを何より尊重することである。

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じっと動かずにいること、そして、 自分で望みながらも、近づくことのできないものと一つに結び合うこと。 こうして、人は、神とも一つに結び合うのだ。 神には、近づくことができないのである。 隔たりは、美の中枢である。

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もし人が、神は存在しないと考えて、神を愛するならば、神はその存在をあらわすであろう。

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自分の中に神がいない人は、神の不在を感知することができない。

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どうしようもない必然、貧困、窮迫、押しつぶすばかりに重く迫る欠乏と極度の疲労を誘い出す労働、 残酷さ、迫害、非業の死、強制、恐怖、病苦など─これらはみな、神の愛である。 神は、私たちを愛するからこそ、私たちが神を愛することができるようにと、私たちから遠くへと退くのである。

いったい、もし私たちが空間や時間や物質に保護されることなく、 じかに神の愛の照射にさらされるとしたら、陽にさらされた水のように蒸発してしまうであろう。 私たちの中には、愛するゆえに<私>を捨て去るというにたるだけの<私>もなくなってしまうだろう。 必然は、私たちが存在できるようにと、神と私たちとのあいだに張られた幕である。 私たちは、存在するのをやめるために、この幕を突き破らなければならない。

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<神から離れようとする>ひとつの力が存在する。 そうでなければ、すべてのものが神となったであろう。

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神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。 そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。 だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも、隠されていなければならない。 そして、この世においても、隠されていなければならない。

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神が何かあることを命じていると知ることは決してできない。 神への服従を願う気持ちがあっても、神を自分よりも限りなく上方にあるものとみなすならば、 何をしても救われるし、自分の心を神と呼ぶならば、何をしても滅びる。 さきの場合には、自分が過去、現在、未来においてすること、なすことが、 善でありうるなどとは、絶対に考えないのだ。

(重力と恩寵)




私たちは今生きているこの世界において、その一小部分であるにすぎないが、 この世界そのものが、神の愛が神と神との間に挟み込まれた隔たりなのである。 私たちは、この隔たりの中にあって、一点にすぎない。 空間も、時間も、物質を支配しているメカニズムも、この隔たりである。

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空間と時間の無限が、私たちを神から隔てている。 私たちは、どのように神を求めたらいいのであろうか。 どのようにして神のほうへとおもむくことができるのだろうか。 私たちは、たとえ何百年もずっと歩き続けたところで、 地球の周りをぐるぐる回っているだけのことしかできないだろう。 飛行機に乗ったところで、同じようなことをしているだけである。 私たちは、垂直の方向へと進むことができる状態にはいない。 天の方向へは、ただの一歩も進むことができない。 神のほうが宇宙を横切って、私たちのところまで来てくださるのである。

空間と時間の無限を超えて、 さらに限りなく無限な、神の愛が私たちをとらえに来てくださる。 神は、その時がくれば、来られるのである。 私たちには、神を迎えることを承諾するか、それとも拒むかする力が与えられている。 私たちがいつまでも耳の聞こえない者のようであれば、 神は、物乞いをする者のように、なおも繰り返しやってこられる。

しかしまた、ある日、物乞いと同じく、もう二度とは戻ってこられない時がくる。 もし私たちが神を迎えようと心を定めるならば、 神は私たちの中に一粒の小さな種子を残して、去って行かれる。 そのとき以後、神にはもはや何ひとつなしたもうことはない。 私たちもまた、待つことのほかに何ひとつなすべきことはない。 私たちはただ一旦同意を与えたこと、すなわち「結婚の承諾をしたこと」に対して、 後からあれこれと思いとどまってはならない。

それは、見た目ほど簡単なことではない。 種子が私たちの中で生長することは、苦痛をもたらすのである。 そのうえ、一旦種子の生長を許したからには、生長を妨げるものを打ち砕き、 悪い草を除き、"はまむぎ"を刈り取らずにはいられないのである。 しかも、悪いことには、この"はまむぎ"は、私たちの肉体の一部分をなしており、 庭師のようなこういう手入れは、当然、手あらな手術とならずにはいない。 しかしながら、種子は結局、ひとりでに生長する。そして、魂が神のものとなる日がやってくる。 それは、単に魂が、愛しようと思い立つときであるばかりではなく、本当に、現実に愛するときである。 そのとき、魂は、今度は自分のほうから、この世界を超えて、神のほうへとおもむかねばならない。

魂の愛は、もう被造物の愛ではなく、被造物として愛するのではない。 魂の中にある愛は、作られたものではなく、神の愛である。 神が神に対される愛であり、それが魂を通して愛されるのである。 ただ神だけが、神を愛することができる。 私たちとしてはただ、魂の中に、この愛が移ってくることができるように、 自分自身の感情を捨て去るように心がけることしかできない。< これがまさに自己を否定することである。 私たちが創られたのは、ただこのように心を決めるためにほかならない。

(神を待ちのぞむ)