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私は無であることを愛さねばならない。
私がなにものかであったりすればなんと醜悪なことだろうか。
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私は無である。
このことは、「私が」が有であると思う人にとっては地獄である。
(有限な事物に投影された「私が」)
(カイエ 2)
真の精神的な死とは、運命がもたらす万象への服従の同意である。
運命は私が「私」である所以の一切を奪えるからだ。
おのれが他の何ものでもない一介の被造物にすぎぬことを受諾する。いわば全存在を失うことを受諾する。
私たちは被造物にすぎない。
ところで、被造物にすぎぬことを受諾するとは、いわば無にすぎぬことを受諾することだ。
神が私たちのあずから知らぬまに与えてくれた存在、それは非存在である。
非存在を願い求めるならば、私たちは非存在を有する。気づきさえすればよいのだ。
存在しようと欲することが罪であり、存在すると思い込むことが罰である。
存在するまいと欲することが償いであり、存在しないと気づくことが救いである。
私たちに自分は存在すると思い込ませたのはアダムである。
私たちに自分が存在しないことを教えたのはキリストである。
私たちが非存在であると教えるために、神はみずから非存在となった。
神にとって犠牲とは、自分が存在すると思い込むことを人間に赦すことだ。
人間にとっての犠牲とは、自分は存在しないことを認めることだ。
おのれの非存在をしかと認めた人々は神の側に移行する。
おのれが存在しないと知りつつ、なお非存在に同意せずにいる、それが地獄である。
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愛があればこそ、自分が神でないことに同意できる。
愛があるならば、自分は何ものでもない、無でもかまわないと同意できる。
神が存在すると考えただけで愛は完全に満たされる。このように愛さねばならない。それ以外の態度は浅ましい。
(カイエ4)
負い目を許すこと、未来にどんな代償も求めず、過去をそのまま受け入れること。
今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。
この世から脱して、むなしくなること。しもべ(奴隷)の本性を身にまとうこと。
時間と空間の中で自分の占めている一点にまで小さくなること。無になること。
この世の架空の王権を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。
そのとき、人はこの世の真実に触れる。
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全体の中で、真の自分の場所にいることができるために、無となること。
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植物の段階にいたるまで、無となること。そのとき、神が糧となる。
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自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。
この目的をめざしてすべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。
神よ、どうか私を無とならせてください。私が無となるにつれて、神は私を通して自分自身を愛する。
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自分を根絶やしにしなければならない。
木を切って、それで十字架を作り、次には日々にそれを負わなければならない。
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社会的にも、生物としても、自分を根絶やしにすること。
地上のあらゆる国から、追放された者となること。
自分を根絶やしにするのは、さらに多くの実在性を求めることになる。
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私の中にあるエネルギーだとか、天分だとかが、いったいどれほど大切なものなのだろうか。
そんなものには、つねづねうんざりしているから、私は消え去るのだ。
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もし私が重要な存在であるならば、それはどんなにかおそろしいことだろう。
自分の無を愛すること、無であることを愛すること。
目に見えるとばりの向こう側に位置している魂の部分によって愛すること。
というのは、意識にそれと感知できる魂の部分は、無を愛することができないばかりか、それを恐れるからである。
もしこの部分が無を愛していると思い込んでいても、それが愛しているものは、無とは別のものである。
(重力と恩寵)
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