私は無であることを愛さねばならない。
私がなにものかであったりすればなんと醜悪なことだろうか。
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私は無である。
このことは、「私が」が有であると思う人にとっては地獄である。
(有限な事物に投影された「私が」)
(カイエ 2)
負い目を許すこと、未来にどんな代償も求めず、過去をそのまま受け入れること。
今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。
この世から脱して、むなしくなること。しもべ(奴隷)の本性を身にまとうこと。
時間と空間の中で自分の占めている一点にまで小さくなること。無になること。
この世の架空の王権を脱ぎ捨てること。絶対の孤独。
そのとき、人はこの世の真実に触れる。
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全体の中で、真の自分の場所にいることができるために、無となること。
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植物の段階にいたるまで、無となること。そのとき、神が糧となる。
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自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。
この目的をめざしてすべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。
神よ、どうか私を無とならせてください。私が無となるにつれて、神は私を通して自分自身を愛する。
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自分を根絶やしにしなければならない。
木を切って、それで十字架を作り、次には日々にそれを負わなければならない。
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社会的にも、生物としても、自分を根絶やしにすること。
地上のあらゆる国から、追放された者となること。
自分を根絶やしにするのは、さらに多くの実在性を求めることになる。
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私の中にあるエネルギーだとか、天分だとかが、いったいどれほど大切なものなのだろうか。
そんなものには、つねづねうんざりしているから、私は消え去るのだ。
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もし私が重要な存在であるならば、それはどんなにかおそろしいことだろう。
自分の無を愛すること、無であることを愛すること。
目に見えるとばりの向こう側に位置している魂の部分によって愛すること。
というのは、意識にそれと感知できる魂の部分は、無を愛することができないばかりか、それを恐れるからである。
もしこの部分が無を愛していると思い込んでいても、それが愛しているものは、無とは別のものである。
(重力と恩寵)
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