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執着が、もろもろの幻想を作り出すのである。
誰でも現実的なものを望む者は、執着から離れなければならない。

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完全に執着から離れることによってのみ、人をあざむく価値の霧の向こう側に、
なまで赤裸なものの姿を見ることができるのである。
だから、腫物でおおわれ、掃き溜めの中でまろび苦しむということがなければ、
ヨブには世界の美しさは啓示されないのである。苦痛なしに、執着から離れることもないからである。
そしてまた、執着から離れていなければ、どんな苦痛をも嫌悪感やごまかしなしに耐え忍ぶことはできないからである。

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まったく執着から離れきるためには、単なる不幸だけでは十分ではない。慰めのない不幸が必要である。
慰めがあってはならない。これといってかたちに表せるような慰めが少しでもあってはならない。
そのとき、言葉に言いつくせぬ慰めが、降り下ってくる。

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煩悩を滅却すること─または、執着を離れること─または運命愛─または、絶対的な善への渇望、
これらはつねに、同じものである。
すなわち、欲望をむなしくすること、あらゆるものの内容の究極性を無にすること、
むなしく望むこと、期待もなしに望むことなど。
私たちの欲望を、さまざまな幸福への執着から離れさせて、待つこと。
このように待つことによって、満たされるとは、経験の示すところである。
そのとき、絶対的な善に触れる。

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この世の現実は、私たちが私たちの執着をもって作り上げたものである。
それはあらゆるものの中に、私たちが運び込んだ<われ>の現実である。
しかし、そんなものはまったく私たちの外にある実在ではない。
私たちの外にある実在は、まったく執着を離れたときに、やっと感じ取られるのである。
ただ一本の糸しか残っていなくても、とてもまだ執着はなくならないのだ。

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人を執着から離れさせないような苦痛は、どれも無用な苦痛である。

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さまざまな欲望の根源にまで下っていって、エネルギーをその対象から引き離してしまうこと。
欲望はそこにおいては、エネルギーとしてみれば本物である。対象が偽物なのである。
だが、欲望とその対象とを切り離そうとすると、魂の中には言葉には言いつくせないもぎ離しの現象が生じる。

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ある限定された瞬間─過去や未来から切り離された現在の瞬間─に自分を注視してみるならば、
私たちは罪なき者である。そういう瞬間には、私たちは、あるがままの自分でしかありえない。
この一瞬に、私たちがこのような者であるというのは、世界の秩序の中にある。
こんなふうに瞬間を切り離してみることには、許しが含まれている。
しかも、このように切り離すことが、執着から離れることである。

(シモーヌ・ヴェイユ / 重力と恩寵)




真理は裸性においてのみ顕れる。そして裸性は死である。
すなわち、それぞれの人間にとって生存理由を構成しているすべての執着からの断絶である。
近親者や、他者の意見や、物質的および精神的所有物など、すべてである。
義しい人間となるには自己認識が要請されるのであるが、
そのためには現世においてすでに裸で死んでいなければならない。
良心の糾明はわれわれの生存理由を構成するすべての執着からの断絶を要請するのである。

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魂がそのまなざしを神のほうに方向転換するためには、生成し、消滅し、変遷する事物、
すなわち時間の相のもとにある事物から魂全体を引き離さねばならない。魂全体をである。
つまり、感覚的な事物に根を下ろし、そこから生命を汲み取っている、魂の感覚的で内的な部分も含まれるのである。
魂を根こぎにしなければならない。それはひとつの死である。転回(回心)とはこの死のことである。

われわれが執着しているある事物やある人物の喪失は、
エネルギーの喪失に対応するがごとき意気阻喪によって直接的に感知される。
われわれが執着している事物と人物の総和によって供給される生命エネルギーをことごとく喪失しなければならない。
だから、それはたしかにひとつの死である。

かくて、まったき離脱は神への愛の条件である。
魂が全身全霊を込めて神に向かうために、この世から完全に離脱する運動を完遂したとき、
魂は、神から魂のうちに降下する真理によって照らされるのである。

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きわめて些細な執着さえも魂の変容を妨げる。
必要な温度にたった一度でも足りなければ、樹木が燃え出さないようなものだ。
きわめて細い糸であっても、それが断ち切られなければ、鳥が飛び立てないようなものだ。

(シモーヌ・ヴェイユ / ギリシアの泉)