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神は、みずから"必然"となっている。

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必然への服従に同意し、ただ必然をうまく扱いながら、行動していくこと。

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従順は最高の徳である。必然を愛すること。
必然は、個人についてみれば、これ以上低度のものはないといえるようなものである。
(圧迫、力ずく、強制、運命のつらさ、など)
宇宙の必然は、こういうものから解き放ってくれる。

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ある目的のためにではなく、必然によって、行動すること。
これ以上のことはできないのだ。
それは行動ではなく、一種の受動性である。
能動的に行動しない行動である。

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創られたもの(被造物)が完全な従順の状態にたどりつくとき、その一つ一つが、
世界における神の現存と、知と、わざとの、独自な、唯一の、かえがえのないあらわれとなる。

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従順が、唯一の純粋な動機である。
それだけが、自分のしたことに対し報いを望む気持ちこれっぽっちももたず、
報いについての配慮はすべて父なる神におまかせしようとする。
「隠れたところにおいでになり、隠れたところで見ておられる」父なる神に。
ただし、それは、必然への従順であって、
圧迫(強制)への服従(奴隷たちにおいて見られるおそろしい真空状態)であってはならない。

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どれほど自分を、他人に、また大きな目的のために捧げようと、どんな苦痛を耐え忍ぼうと、
それがものとものとの関係についての明確な認識や必然への純粋な従順によってなされているならば、
実行にあたってずいぶん労苦を伴うとしても、やろうと腹を決めるのに努力はいらないはずである。
このほかにやりようがないのである。だからその結果として、
どんな逆戻りも、満たさねばならぬ真空も、報いへの望みも、恨みも、堕落も起こりようがない。

(シモーヌ・ヴェイユ / 重力と恩寵)





必然性は宇宙の本質そのものである。

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宇宙には究極性が欠けている。
究極性がないということは、必然性が支配していることである。
"物事"にはみな、原因があるが、目的がない。

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必然性のメカニズムは、無機物においても、植物においても、動物においても、群衆においても、
個々の魂においても、それ自体の性質は変わることなく、あらゆる段階にわたって移動する。
今私たちのいる立場から見ると、私たちの眺めている所からは、そのメカニズムはまったく盲目的なものに見える。
しかし、いったん私たちが自分自身の外側に、空間と時間の外側に、天の御父がいますところに、自分の心を移し、
そこからこのメカニズムを見るとき、それはまったく違ったものとして現われる。
必然性と見えていたものが、信従となる。
物質は、まったく受動的であり、したがって神のご意志にまったく従うものである。
物質はこの点で、私たちにとっても、完全な模倣になる。
神と、神に従うもののほかには存在するものなんてあるはずがない。
その完全な信従のゆえに、物質は、その主であるものを愛する人々から愛される価値がある。

私たちは、物質にも、この世の美しさのゆえに、私たちから愛される価値があるのだという一面を、知らされている。
世界の美しさの中では、荒々しい必然性も、愛の対象となる。
波打つ海原のたちまち消えていく水のひだにおいても、
ほとんど永遠に続くとみえる山々の起伏においても、重力ほどに美しいものは何もない。

私たちは、時には船が呑み込まれることのあるのを知っているが、
それでもやはり私たちの目に映る海の美しさは、少しも変わらない。
それどころか、それゆえにこそ、ますます美しいものに見える。
海がもし、船を助けようとして、波の動きを変えるならば、海は識別をし、選択をする能力のある存在となり、
外部の圧力に完全に従った流動体ではなくなってしまう。
海が美しいのは、この完全な信従のためである。

この世において起こるおそろしいことはみな、重力によって海の水にきざみこまれるひだのようなものである。
だからこそ、そういうものも、美しさを隠し持っているのである。

人間は、神への信従から決して離れ出ることはできない。被造物が従わずにいることはできないのである。
知性を備えた自由な被造物として、ただ一つ人間が選ぶことができるのは、
信従を望むか、望まないかということだけである。もし、望まないとしても、やはり人間は永久に、
機械的な必然性に屈従する者として、従う者であることにかわりはない。もし、人間が信従を望むならば、
機械的な必然性に屈従していることはそのままであるとしても、さらに新しい必然性がそこに加わるのである。
それは、超自然的な事柄だけにふさわしい法則によって成り立った必然性である。
人間には、ある種の行動をすることが不可能になり、
あるいはまたどうかすると自分ではほとんどそんなことをする気もないのに、
そんな挙に出てしまったというような行動が生じてくる。

そういうような場合に、神に従わなかったという気持ちをもつとしても、
それは単に、一度的に信従をやめたということにすぎない。
もちろん、ほかのことがみな同じだとすれば、人間は信従に同意するか、しないかによって、
そこから出てくる行動は同じではありえない。
ちょうど、何かの点がみな同じである場合、植物が、光の中に置かれているか、
暗闇の中に置かれているかによって、育ち方が違ってくるのと軌を一にする。
植物は、その生長という働きにおいて、なんら自分で批判したり、選択したりということはしない。
私たちも植物みたいなものであるが、ただ一つ、光に身をゆだねるか、
ゆだねないかということだけは選び取ることができるのだと言えよう。

キリストは、「働きもせず、紡ぎもしない」野の百合を見よと私たちに教えられたが、
それは、物質の従順さを手本にせよとすすめられるためであった。
つまり、野の百合は、ああいう色の着物、こういう色の着物を着たいと思うこともなく、
自分の欲望を欲しいままにして、いろんな手段をその目的のために動員したりもしなかった。
自然の必要から与えられるものだけをそのまま受け取ってきたのであった。
野の百合が、豪華な布地よりもはるかに美しく見えるのは、
かれらが豪華さにおいてまさっているからではなく、その従順さのためである。
織物もなるほど、従順ではあるが、人間に従順なのであって、神に対してではない。
物質は、人間に従っているときには美しくなく、ただ神に従うときにだけ美しい。

時たま、芸術作品などにおいて、物質が、海や山や花などにおける場合とほとんど同じくらいに美しく見えることがあるが、
それは芸術家が神の光によって満たされているからである。
神の光に照らされていない人たちが作り出した作品が美しく思われることがあるのは、この人たち自身がいわば、
それと知らずに従っている物質のようなものであるからこそなのだということを、心の底深く理解しておかなければならない。
この点を理解している人にとっては、絶対的な意味で、この世のすべてが完全に美しいのである。
存在するすべてのもの、起こりうるすべての事柄のうちに、その人は必然性のメカニズムを見つけ出し、
必然性のうちにあって、従順であるということの無限の甘美な味わいを味わいつくす。
このように、"もの"が従順であるのは、私たちに対して神の御姿をあらわし出すものである。
いわば、ガラスが透きとおっているのは、光をとおすためであるように、
こうして私たちは、自分の全存在が従順になったと感じるとき、神を見るのである。

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読み方を習ったり、手仕事を覚えたりするのと同じように、世界が神に信従しているさまを、あらゆる事柄において、
何よりもいわばそれだけを感じ取ることも、学んではじめて知られることである。
これもまさに一つの修業である。あらゆる修業と同じように、努力と時間が要求される。
その修業をまっとうした人にとっては、もはや、すべての"もの"や出来事の間にはなんの相違もなくなってしまう。
いわば、字を読める人にとって、同じ一つの文章が、赤インキで書かれようと、青インキで書かれようと、
さまざまな字体で印刷されようと、何度繰り返して複製されようともなんの違いもないと感じられるのと同じことである。
字が読めない人の場合だと、みんな、違っているように見える。
字を読める人には、どれもみな、同じ文章なのだから、価値にかわりがない。

修業を完成した人にとって、"もの"や出来事はいずれも、いつ、いかなる所においても、
かぎりなく慕わしい同じ神の言葉の脈動と受けとられるのである。
もちろん、その人に苦しみがないというのではない。苦悩は、出来事の中にあるものを彩る"いろどり"である。
赤インキで書かれた文章を見れば、字を読める人も、読めない人も等しく、そこに赤い色をみとめるが、
その赤色がもつ重要性は、この二人のそれぞれにとって、同じではない。

見習い中の者が、けがをしたり、疲労のために不満をもらしたりするとき、
労働者や農民たちは、次のような面白い言い方をする。「仕事が体に食い込んでいるんだ。」
私たちが何か苦痛を忍ばねばならないときには、いつでも世界や、この世の秩序や、この世の美しさや、
創造されたものの神への服従が「私たちの体に食い込んでいる」のだと言ってもよいであろう。
そして、そのとき、私たちにこのような賜物をたまわった愛の神に対して、
心からなる感謝とともに、祝福を捧げずにいられない気持ちになるはずである。

喜びも、苦しみも、どちらも同じように貴重な賜物であって、
それらをいっしょくたにしようとせず、それぞれ純粋なままに、一つ一つを完全に味わいつくさねばならない。
喜びを通じて、この世の美しさが私たちの魂に染みこむ。
苦しみを通じて、体の中に入り込む。
ただ喜びだけをもってしては、神を愛する者になることができないのは、
ちょうど、航海の手引きを学んだだけで船長になることができないのと同じである。
体は、どんな修業においても関わりをもつのである。
肉体的な感覚の段階においては、苦痛だけが、この世の秩序を作り上げている必然性との接触点である。
なぜなら、快楽は、必然性を感覚的に受けとめることができないからである。
喜びの中にあって必然性を感じ取ることができるのは、感覚の中でももっと高い部分であり、
それもただ美しいという感じを媒介にしてのみ可能である。

私たちが、いつの日か、物質の本質をなすこの従順さを、完全に一貫して感じ取ることができる存在となるためには、
また、世界を、神の言葉の脈動するところであると理解することができるような新しい感受力を、
自分のうちに形成しうるためには、苦しみと喜びとの両方を変革する力がどうしても必要である。
愛する人からつかわされた使者に対して、いそいそと家の門を開けるように、
喜びと苦痛のどちらが現われて来ても、魂の中心そのものをどちらにも明け渡さなければならない。
使者はことづけを伝えてくれさえすればいいので、親切であろうと、乱暴であろうと、
そんなことは愛する者にとってはどうでもいいことなのである。

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魂を導くものが愛であるとき、人は必然性をじっと見つめることにより、
いよいよその金属的な硬さと冷たさとを身にしみてじかに感じとり、そして一そう世界の美しさへと近づいていく。
ヨブが体験したことも、こういうことであった。
彼は、苦難のうちにあって、あくまでも誠実であったし、
その真実をゆがめるような考えを抱くようなことは断じてしなかったので、
神は彼のほうへと下って来られ、世界の美しさを彼に啓示してくださったのであった。

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世界の美しさから学んだり、究極性や、特別な意図や、差別のないことに対して応答しようとしたりするためには、
私たちのうちに、なんらかの意図があってはならないし、自分の意志を捨てていなければならない。
完全に従順になるということは、私たちの天の父が完全であるように、完全な者となることである。

人間の中では、奴隷は、いくら主人に従順になっても、主人と同じものになることはない。
それどころか反対に、服従すればするほど、彼と命令する人との間の隔たりは大きくなるばかりである。

人間と神との間では、そんなことはない。
理性のある被造物(人間)が神に対してまったく従順な者となれば、
人間は人間に許された程度まで、全能者の完全な像(イマゴ)となるのである。

人間においてほかならぬ神の像となりうるものは、
私たちのうちで、人格となりうる事実と関連のある何ものかであって、その事実そのものではない。
それは、人格となることを放棄しうる能力である。つまり、従順なのである。

人間が非常に高い段階にまで高められ、ついには、神的存在にあずかるほどになると、そのつど、
いつも人間の中に、何か非人格的なもの、名前を持たないものがあらわれてくる。
彼の声は、沈黙に包まれる。
このことは、偉大な芸術作品や、思想の書、聖人の優れた行為や言葉などにも、明らかにあらわれている。

だから、ある意味では、神をも非人格的なものとして理解しなければならないということは本当である。
その意味はこうである。
つまり、神は、自分自身を捨てることによって自己を超えていく人格が、いわば神において示された模範なのである。
神を全能の一人格として、または、キリストという名の人間的な人格として理解することは、
神への真実な愛を除き去ることになる。
そして、それゆえにこそ、太陽の光がどこにも同じように満ちわたっているという事柄において、
天の父の完全さを愛するようにしなければならない。

私たちが、内面において自己放棄を果たすのが従順であり、いわば、それが神において絶対的にあらわれた模範が、
宇宙の創造的な、秩序正しい原理となり、存在の充満となっているのである。

(シモーヌ・ヴェイユ / 神を待ちのぞむ)