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人間誰にでも、なんらかの聖なるものがある。
しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性でもない。
きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。

私にとって、聖なるものとは、その人の中にある人格でもなければ、人間的固有性でもない。
それは、その人である。まったきその人なのである。腕、眼、思考、すべてである。
それらを少しでも傷つければ、限りない良心の痛みに見舞われないではいられないであろう。

善は、聖なるものの唯一の源泉である。
善と、善と関わりあるもの以外に聖なるものはない。

聖なるもの、それは人格であるどころか、人間の中の無人格的なものなのである。
人間の中の無人格的なものはすべて聖なるものであり、しかもそれだけが聖なるものである。

人格の表出の様々な形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、
それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。
しかし、この領域を超えて、はるか彼方に、この領域とは一つの深淵でもって隔てられた、もう一つの別の領域があり、
そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない。
真理と美は、この無人格的な名をもたぬものの領域に共存している。
この領域が聖なるものである。もう一つの領域は聖なるものではない。

学問における聖なるもの、それは真理である。
芸術における聖なるもの、それは美である。
真理と美は無人格的なものである。
このことは明白すぎるほど明白なことである。

完全とは無人格的なものである。
われわれの内部にある人格、それはわれわれの内部にある錯誤や罪の部分である。
神秘主義者たちのあらゆる努力は、もはや自分たちの魂の中には、
≪わたし≫と語るいかなる部分も存在しない、という状態を獲得することを常に目指してきた。
しかし≪われわれは≫と語りかける魂の部分は、なおはるかに危険なのである。

孤独の中でしか可能でない、たぐいまれな性質の注意力を集中することによってのみ、
無人格的なものの中へ分け入ることができるのである。
そのためには、たんに実生活上での孤独だけではなく、精神的な孤独が必要である。
自分が集団の一員として、≪われわれ≫の一部分であると考える人間は、
無人格的なものの中へ分け入ることは決してない。
集団の中の人々は、低い次元の形式のものであろうと、無人格的なものへ近づくことはできない。
人間の集団は足し算すらすることはできない。

人格的なものは無人格的なものと対立している。
しかし、一方から他方への道はある。集団から無人格的なものへの通路はない。
無人格的なものの中へ分け入ることができるためには、
まず、集団が分解し、個々別々の人格とならなければならない。
こういう意味においてのみ、人格は、集団より以上に、いくぶんかでも聖なるものの性質を帯びているのである。

集団は聖なるものと無縁であるばかりか、
聖なるものの誤った模造品を提供することによって、聖なるものを混乱させるのである。
集団に聖なる性格を与えるという錯誤が偶像崇拝なのである。
偶像崇拝は、いかなる時代、いかなる国においても、最も広くゆきわたっている罪である。
自分にとって人格の表出だけが重要だと考える人は、聖なるものの意味すら、完全に喪失してしまった。
最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、
人格の側に集団的なものの中に突進し、そこに埋没しようする傾向があることである。

古代には人格に当然支払われるべき敬意という概念が存在しなかった。
なぜなら、古代人は、物事をあまりにも分かりやすく考えたから、
このように複雑な概念を思いつくことはできなかったのである。

無人格的なものの中へ分け入るためには、
人格的なものを超越することによってのみ、人間は集団的なものから逃れる。
無人格的なものの領域に入り込んだ人々のひとりひとりは、そこであらゆる人間に対するある責任に出会う。
その責任とは、人格を守ることではなく、無人格的なものの中へ分け入る、壊れやすいいくつかの可能性の中で、
人格が覆い隠しているあらゆるものを守ることである。
まず、このような人々に向かって、人間の聖なる性格に対する尊敬の念を抱くようにと訴えなければならない。
なぜなら、そのような訴えが実をあげるためには、
その訴えに耳を傾けうるような人々に向かって、訴えなければならないからである。

人格は聖なるものである、ということを集団に言うことが無益であるとしたら、
人格に向かって、人格そのものが聖なるものであると言うこともまた無益である。
人格は、言われたことを信じることはできない。
人格は自分自らを聖なるものだとは感じていない。
人格が自らを聖なるものと感じないようにしむける原因は何かといえば、
それは人格が事実において聖なるものではないからである。

(シモーヌ・ヴェイユ / ロンドン論集)




人間が非常に高い段階にまで高められ、ついには、神的存在にあずかるほどになると、そのつど、
いつも人間の中に、何か非人格的なもの、名前を持たないものがあらわれてくる。
彼の声は、沈黙に包まれる。
このことは、偉大な芸術作品や、思想の書、聖人の優れた行為や言葉などにも、明らかにあらわれている。

(シモーヌ・ヴェイユ / 神を待ちのぞむ)