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実在するものを見極める基準は、それが固くて、ざらざらしているということである。
そこに見出されるのは、喜びであっても、快適さではない。
快適なものは、夢見られているものである。

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美と実在とはひとつである。喜びと実在感はひとつである。

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喜びは、実在感に満ち溢れていることである。

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あらゆるものの中で、外部から、価いなく、不意に、天の恵みのように、
求めもしなかったのにやってくるもの、それだけが純粋な喜びである。

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想像をまじえずに、愛しようと努めること。
ありのままの外観を、なんの解釈も加えずに愛すること。
そのとき、自分が愛しているものは、まさしく神である。

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想像力によって覆い隠されていないものの中ではどこでも、神がありありと現前している。

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神と超自然的なものは、宇宙においては、隠されていて、形がない。
このどちらもが、魂の中にあって隠されていて、名前がないのは、よいことである。
そうでないと、これらの名前によって、想像上のものをつかんでしまう危険がある。

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私たちを神に近づけないような学問にはなんの価値もない。
だが、もし正しく近づけないならば、すなわち、想像上の神に近づけるならば、いっそう悪い。

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すべて快楽への欲望は、未来に属し、幻想の世界に属している。

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ひとりの人が存在するようにと望みさえすれば、その人が存在するのだとすれば、
このほか、これ以上に何を望むことがあろうか。
そのとき愛するその人は、想像の未来に覆い包まれていず、裸のままで、現実に存在する。

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喜びの充実感を深く味わえば味わうほど、
不幸のときの苦しみも、他人に対する憐みの思いもいよいよ純粋に、いよいよ強烈になっていくのである。
喜びを持たぬ人から、苦しみは何を奪いとることができるのか。
そして、喜びの充実感を味わっているときには、苦しみはさらに喜びに対して、
飢えの食物に対するのと同じ関係をもつようになる。
苦しみの中に確かな実在を見るためには、喜びを通じて、そういう実在をあらかじめ啓示されていなければならない。
そうでないかぎり、人生とは、多少の差はあれ悪い夢にすぎなくなってしまう。
無であり、真空である苦しみの中に、いちだんと充実した実在を見てとることができるようにならなければならない。
同様に、さらにますます死を愛することができるために、生を深く愛さねばならない。

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神があると考えて、充実した喜びを感じるならば、
自分は存在しないのだと知っても、同じ充実感を味わうべきであろう。
これらのことは、同じ考えなのだから。
そして、この知識は、ただ苦しみと死を通じて感覚にまで拡大されていくのだ。

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神のうちなる喜び。
神のうちには、完全で無限な喜びが現実に存在する。
この完全で無限な喜びの実在に、私があずかっても、何をつけ加えることにもならず、
また、あずからなくても、何をとり除くことにもならない。
そういうことなら、私がそこに参加すべきか参加すべきでないかに、どんな重要性があろうか。
重要性など全然ない。

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私の中にいまだかつて喜びがなかったといって、それがなんであろう。
神の中には尽きることなく、完全な喜びがあるのだから。
美、知性、その他あらゆるものについても同じだ。

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自分自身の救いを望んでいる人々は、神のうちなる喜びの実在を本当には信じていない。

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自分の救いを望むのは、間違っている。
エゴイスト的だからというのではない。(エゴイストになるのは人間の力でできることではない)。
そうではなく、魂を、存在の充実感に、無条件に存在する善に向けないで、
個別的で偶然的な単なる可能性に向けることになるからである。

(シモーヌ・ヴェイユ / 重力と恩寵)