



謙遜の徳は神秘的であり、超越的であり、定義不可能であり、表象不可能である。
(ギリシアの泉)
真の謙遜は、自分が人間として、さらに広くいえば被造物として、無であることを知ることである。
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知性の領域では、謙遜の得とは、注意力にほかならない。
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謙虚さとは、神の外側にあって存在するのを拒むことである。
もろもろの徳の中の女王である。
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謙虚さとは、<わたし>と呼ばれるものの中には、
自分を高めていけるエネルギーの源泉なんてまるでないのを知ることである。
私の中にある貴重なものはすべて、ひとつの例外もなく、私自身とは別なところから来たのである。
それも、賜物としてではなく、たえず継続を願い出なければならない貸与物として。
私の中にあるすべてのものは、例外なく、まったくなんの価値もない。
別なところから与えられる賜物でも、私がそれを自分のものにするとなんでもたちまち、無価値になる。
パリサイ人とは、自分の力だけに頼って、徳の高い立派な人間になろうとした人たちのことである。
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謙遜の目的は、霊的な進歩において、想像上のものにすぎない部分を捨てることである。
自分が実際よりもずっと進みかたが遅いようだと思うとしても、なんら不都合があるわけではない。
それでもやはり、光はその効果を及ぼす。光の源泉はなにも、人の意見にあるのではない。
多くの人々が実際よりも進んでいると思っているが、それは人の意見に左右されているのである。
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私たちは、謙虚さを得ようとする必要がない。謙虚さは、私たちの中にある。
ただ、私たちは、にせの神々の前で謙虚になっているだけなのだ。
(重力と恩寵)
一般的に美が善の似像であるように、純粋さはへりくだりの似像である。
へりくだりは完全に超自然的な唯一の徳である。
(カイエ2)
真理の探求において謙遜は最も本質的な徳である。
虚偽に訴えずには絶対に迂回できない袋小路に通じる矛盾は、じつのところ袋小路ではなく扉へと通じているのだ。
立ち止まって、執拗で謙虚な待機の姿勢で、倦むことなく、この扉を叩いて、叩いて、叩き続けねばならない。
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自分が存在せぬことを知ると同時に、存在せぬことを欲さねばならない。
謙遜は愛の根である。
謙遜は神に対して圧倒的な力を発揮する。
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神を疲れさせるにたる忍耐は無限の謙遜から生じる。
謙遜は神に対する権能をわれわれに与える。
完全な疎である無のみが、完全な密である存在(エートル)と結びつくことができる。
謙遜によってのみ、われわれは天の御父のように完全になれるのである。
すみずみまで打ち砕かれた心が必要である。
よじ登っては滑り落ちるあの蟻のような動作による祈りは、
言葉や内心の叫びによる祈りあるいは沈黙裡になされる願望の方向づけによる祈りにもまして、いっさい謙遜な祈りである。
おのが無力を知りつつ、無益とわかっている努力に身を擦り減らすのだ。
自分にはあえて嘆願する勇気さえないのだが、
いつの日があの<力あるかた>がこの行動に気づいてくれるかもしれぬと謙虚に待ち望みながら。
無言で忍耐強い待望にまさる謙虚な態度はない。
主人のどのような命令にも心身の備えができている、いや、命令がないことにさえも備えができている奴隷の態度である。
待望とは能動状態にある思考の受動性である。
待望が時間を永遠に変容させる。
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謙遜、それは待望である。
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謙遜は魂の時間に対するある種の関わり方である。それは待つことを受け入れることだ。
だから、社会的に言えば、地位の低い者の印は他人から待たされることなのだ。
圧制者なら「私はあやうく待つところだった」とでも言うだろう。
しかし、万人を詩情のなかに包括して等しい者とする儀式にあっては、万人が待つ者となるのである。
芸術は待ち望むことだ。霊感とは待ち望むことだ。
待ち望むことによって実を結ぶであろう。
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待機するときの謙虚さはわたしたちを神に似たものとする。
謙遜とは、魂と時間のある種の関係である。つまり待機(アタント)の受諾である。
謙遜とは神の待機(待望)にあずかることだ。
完全な魂は、神自身の沈黙、不動性、謙遜に匹敵する沈黙、不動性、謙遜をもって善を待ちのぞむ。
キリストの磔刑は神のこの不動の在りかたを映す像(イマージュ)である。
神は弛緩することのない注意そのものである。
神の謙遜と注意をまねぶべきである。
「わたしが聖であるからあなたたちも聖であれ」。神のまねび。
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謙遜はなによりもまず注意力の一特性だ。
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傲慢な声は、どのような形であれ、「未来は私のものだ」と叫ぶ。
謙虚さとはその逆が真実であると認識することである。
現在のみが私に属しているのであれば、私は無である。現在は無だからだ。
超越的なパンは今日のパンである。だから、それは謙虚で倹しい魂の糧なのだ。
あるゆる罪は時間を逃れようとする試みである。
時間を耐え忍び、心臓が砕けるまで時間を胸にしかと抱きしめること、これが徳である。
そのとき永遠のうちにいるのだ。
不幸は魂を凍りつかせ、その意に逆らって魂を現在の一瞬に切りつめてしまう。
謙遜とはこのような切りつめに同意することだ。
謙遜とは自然的本性に嫌悪を催させるもの、すなわち無に同意することだ。
私は存在しない。かつ、存在しないことに同意する。
私は善ではないのだし、私は善のみが存在することを欲するからである。
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「同情」と謙遜は結びついている。
謙遜は真正な徳すべての根源である。
たとえば貞潔、節制、忍耐などもそうである。
「わたし」という意識の障害が撤去されるとき、「同情」は人間にとって自然なものとなる。
超自然的なものは「同情」ではなくてこの撤去のほうである。
謙遜のみがもろもろの徳を無限定なものとする。
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謙遜はただひとつ許された自己愛の在りかたである。
神には祝歌、被造物には「同情」、みずからには謙遜を。
謙遜を伴っていないなら、いかなる徳も有限なものでしかない。
謙遜だけがそれらの徳を無限なものにする。
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謙虚さとは他者と比較して自己の人格を低く評価することではない。
自己の内なる非人格的なものと比較して、自己の人格を根元的に低く評価することである。
非人格的なものが魂に植えつけられ、そこで芽吹くと、すべての善きものをみずからに惹きよせる。
人格は固有の特性としては悪を有するだけになる。
こうなると、おのれを他者と比較すれば必ずや自分のほうが劣っていると思うようになる。
他者は少なくとも善と悪の混淆物であると思えるからだ。
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耐えがたいものによって天井を突き破ることもある。
時間の観照が人生の鍵である。
時間はいかなる科学をもってしても手のつけられない還元不可能な神秘である。
未来における自己に確信がもてぬと悟るなら謙虚にならずにはいられない。
時間の支配下にあって修正可能な自我を放棄しなければ、不変性に到達することはできない。
いかなる合理主義にも還元できない二つのもの、時間と美。ここから出発しなければならない。
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謙遜の徳は、社会的集団への帰属意識とは両立不可能だ。
それは国民であれ教会であれ同じことだ。
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悪魔は集団的である。
傲慢は悪魔に特徴的な属性である。
ところで傲慢とは社会的なものである。慢心。
傲慢は社会的な保身能力である。
謙遜は社会的抹殺の容認である。
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天才は思考の領域における謙遜の超自然的特性である。
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謙遜と真の哲学との関係は古代においては知られていた。
ソクラテス派、犬儒派、ストア派の哲学者たちにあっては、侮蔑され、平手で打たれても、
自己の威厳を繕うための本能的な防衛反応の片鱗も示さずにかかる仕打ちに耐えることは、
哲学という生業に付随する義務の一部とみなされていたのだ。
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まったき謙遜とは我々を惰性にしたがう虚無とする死への同意である。
聖人とは、いまだ生きてはいても死に心から同意した人々のことだ。
(カイエ4)


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