運命の打撃をこうむるたびに「わたしは耕されているのだ」と自分に言うこと。
大小を問わず痛みを覚えるたびにそう言うこと。
被造物から神に向けられる愛は、
神の慈しみのひとつ(あるいは唯一の)証拠になるほどの驚異であり、かつ恩恵である。
運命が私を悲惨の中に沈めれば沈めるほど、
この驚異はいよいよ驚くべきものとなり、証拠はいよいよ確かなものとなる。
それゆえ、何ものも慰めのない苦痛に比べられるものはない。
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美は、ひとつの完璧な秩序である。同様に、まったく服従した魂は完璧な秩序の中にある。
世界は運命愛(アモール・ファテイ)を感得する人にとってだけ美しい。
したがって"運命愛"は、それを体験する人にとって神の実在の経験的な証明となる。
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ギリシア語の"ステルゲイン" それは、目で慈しむこと、あきらめてまかせること、すなわち運命愛である。
(カイエ2)
われわれが自我を保つのは時間のなかにおいてである。
時間と時間がもたらしうるすべてを例外なしに受け入れること(運命愛)は、
魂が時間との関係でとりうる唯一の条件づけられない在り方である。
この在り方には無限が含まれている。たとえなにが起ころうとも。
神は有限な被造物に無限へと移行するすべを与えた。
その内容が快いものであれつらいものであれ、
(われわれが罪を犯す瞬間さえも含めた)すべての一瞬一瞬を神の固有の愛情表現とみなすならば、
時間がわれわれを天から引き離しているなどとは言えなくなろう。
神がわれわれを放擲したままに捨ておくのは、われわれに愛を傾ける神一流のやり方である。
(カイエ4)
煩悩を滅却すること―
または執着を離れること―
または運命愛―
または絶対的な善への願望―
これらはつねに同じものである。
すなわち、欲望をむなしくすること、あらゆるものの内容の究極性を無にすること、
むなしく望むこと、期待もなしに望むこと。
(重力と恩寵)
―この幸福に導いてくれる人生とは、単に共通のモラルによって定義づけられるものではなく、
各個人にとって、それを避けて通る者は目的を果たすことができないほど、厳密に個人的に、かつ極めて義務的な連続した行為や事件の中に、
この幸福が存在すると考えておりました。以上申し上げましたことが私にとって召命なるものの概念なのです。
この召命によって課せられた行為の基準を、感受性または理性から生じた行動とは、本質的に、明らかに異なるある衝動の中に私は見ておりました。
そして、そのような衝動が現れました時に、たとえそれが不可能なことを命じていましても、
それに従わないということは、私にとって最大の不幸であると思えました。こういう具合に考えて、私は服従という概念を持つようになりました。
当時私は、最近あなたさまに告白いたしましたあの強度の絶え間ない苦しみの状態にありました。私にはいつも、可能なもっとも美しい人生とは、
周囲の事情の束縛によるものであれ、また、このような衝動に動かされたものであれ、
すべてが決定され、決していかなる選択の余地もないという人生だと思えるのでした。
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神の意志がいかなるものでありましょうとも、それを受け入れなければならないということは、
マルクス・アウレリウスによって、このことがストア流の運命の愛(アモール・ファテイ)の形で提示されているのを私が発見いたしました時以来、
あらゆる義務の中で第一の、最も必要なるもの、自らの名誉を傷つけることなしには欠くことのできない義務、として私の精神に課せられてまいりました。
(神を待ちのぞむ)
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