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肉体は、魂が魂に働きかける“てこ”である。肉体にこらしめの罰を加えると、魂の放漫なエネルギーも、おのずと消耗する。一匹の小山羊を綱に結びつけておくと、小山羊は、綱を引っ張り続け、ぐるぐるとまわり、また引っ張りというぐあいに何時間も何時間もやめようとしない。そして、とうとう、力尽きて、倒れてしまう。肉体が釘づけられたときの、魂の放漫な部分も、同様である。それはあわてふためくのだが、自分の意に反していつも、肉体のほうに引き戻され、ついには、力尽きて、消えてしまう。

魂が完全に二つに分裂してしまってからやっと、一方の部分が他方の部分に抵抗して、肉体をもうまく利用できるようになるのに違いない。

単にそれだけでなくて、魂の中の永遠の部分が肉体から服従を受ける必要がある。このことは、力づくでなしに行われる。肉体は、この支配に同意する。 魂の中の永遠の部分が、肉体に対して何かの指図をしようと考えついたら、肉体はただ服従する以外にどうしようもない。 もしそうでないとしたら、その指図が、魂の中の永遠の一点から出てきたものではないか、それとも、その指図に注意が向けられなかったかである。

肉体は、牢獄である。魂の霊的な部分は、肉的な部分を包み込み、閉じ込めるために、これを用いなければならない。肉体は墓である。魂の霊的な部分は、肉的な部分を死なしめるために、これを用いなければならない。

わたしの肉体が、わたしの魂の中の凡俗なすべてのものに対して、責苦と死の手段となりますように。 ときには、自分の思考を力で抑えつけ、ときには肉体に釘づけにし、思考の精根を枯らすようにしなければならない。だが、肉体を訓練して、ただ魂の中の高級な部分のいうことしか聞かないようにしなければならない。どうすればいいか。

魂の中の低級な部分を、子供のように扱い、泣きわめかせておいて、とうとうそれにも飽き、黙り込むようにはこぶことである。宇宙の中で何ひとつ、その声を聞いてくれるものはいない。しかしながら、神は一方で、魂の高級な部分がご自身に語りかける沈黙そのものを、お聞きとりになる。

「自分の声に耳を傾けないこと」

わたしの内部にあって泣きわめく動物ども、神がわたしの声を聞き、わたしに語りかけるのを妨げているこの動物どもを、黙らせること。沈黙を強いるのにいちばんいいのは、あたかも聞いていないふうをすることである。自分たちのいうことが聞いてもらえないと確認した者は、ついには嫌になって、黙ってしまう。わたしの内部のこの動物どもは、わたしが彼らに声を貸し与えてやらなければ、誰からも聞いてもらえないはずである。そればかりか、わたしも、彼らのいうことを聞いてはならない。少なくとも、そんなそぶりは全然見せてはならない。

彼らはいつも、泣き叫び始めたところで、世界中の何ものからも、――ものからも、人間からも、神からも、わたし自身からも、――聞いてはもらえないのだと知るのがいいのだ。

この動物どもは、わたしの中で、悲しみや、狂喜や、勝どきや、恐怖や、苦悩や、苦痛や、そのほかのあらゆる色合いの感情をさまざまの調子でまじえながら、たえまなく、「わたし、わたし、わたし、わたし、わたし……」と泣きわめいているのである。

このわめきには、どんな意味もない。また、何ものからも、誰からも、聞いてもらえるはずがない。 この動物どもは、絶え間なく、昼も夜もも眠っている間も、一秒の休みもなく、泣きわめくのが習慣である。

彼らに、いろんな音だとか、音の出し方だとかを、教えてやってはならない。ときには、しばらくの間、彼らを黙らせるように仕向けなければならない。その次には、次第に頻繁に、次第に長い間、黙ることのできるように、訓練しなければならない。そして、そのあと、できるならば、彼らの完全な沈黙を勝ち取らねばならない。彼らが肉体の死よりも先に、死ぬのならば、それがいちばんよいことである。

肉体が、彼らに従っているかぎりは、彼らは宇宙と対話でもしているように思いこんでいる。それは、ものが違って見えるからであり、肉体が十歩でも歩むと、宇宙がたちまち変化して見えるからである。肉体が彼らに従っていても、彼らのいうことを言葉で表現しないならば、彼らも、世界中の何ものも自分たちのいうことを聞いていないのを認めずにはいられなくなる。このことをたびたび認めているうちに、彼らの叫びには、絶望が加わってくる。彼らは、叫び出そうとして、その前に疲れてしまう。

反対に、永遠の部分のほうは、どんな叫びもつぶやきも、沈黙すらも、聞き取ってもらうのだから、疲れるということがあるはずがない。

この動物どもは、たいへん奸智に長けていて、本心から出てきたとは思われないようなもろもろの口実を持ち出してきては、肉体を籠絡しようとする。肉体がこれらに従っていないと確信するためには、無条件に、長い期間にわたって、たびたび繰り返して、いろんな事柄を自分に義務づけてみなければならない。なぜなら、この動物どもは、移り気で、気まぐれであるから、いつの日かそういうものに嫌気がさすこともあろうと確信してよいからである。このように、十分よく耐え忍ぶならば、ついには、彼らを阻止することもできると信じられる。

だが、そのためには、計算しないことが肝要である。記録重視の精神は、どんな行動をも、「わたし、わたし」という動物どもを煽り立てる刺激剤になってしまう。いったん、この精神が暴れ始めると、どんな行動も、どんな慎みある態度も、もはやどんな益ももたらさなくなる。もし人が「わたしは、これこれのことを、X時間のうちにやり遂げたんだ……」などと内心で思うならば、そのことを初めからしなかったほうがましなのである。

記録重視の精神が捨て去られ、もはや動揺することなく、日々の実生活を確固とした歩みでたどり、心の中で、「わたしは、これこれのことを、うんと多く時間をかけてやろう」と思い、それをしっかり守るならば、魂の中に巣食う動物どもは、耐えきれなくなって、泣きわめき、吠え猛るだろうが、ついには、自分たちのいうことが聞かれぬことを悟るようになるのは、確かである。魂の中心部で、いったん決意が固められたならば、肉体が彼らに従うことはないのだからである。これこそは、神の憐れみの結果でなくてなんであろうか。

決意のかわりに、この動物どもが吠え狂いながら逆らわずにはすまぬ、何かの外的拘束が加わるという場合なら、いっそうよい。ただ、魂の中の永遠の部分は、この拘束が果てしなく続き、どんな補償もなく、霊的な補償すらもなく、続くことに同意しなければならない。なぜならば、霊的な利益を当てにすることは、「わたし、わたし……」と叫ぶこの動物どもに、その名を借りて餌をやることになるからである。

条件的なものはすべて、この動物どもの領域に属する。ただ、無条件なものだけが、彼らから逃れ出ている。条件的なものの中へと魂を誘い込むのは、補充エネルギーである。ある人が「わたしは、卵が手に入れられるなら、ニキロメートルでも歩いて行くだろう」と考える。それは、疲れていても、ニキロメートルを歩く力が残っているということである。しかし、完全な疲労とは「自分の命を救うためにでも、わたしは十メートルも歩けない」という感じである。それは、営生エネルギーがむき出しにされ、生の諸機能や、生命の交換作用に不可欠なエネルギーが、歩くことによって焼けつくされるといった状態と結びついているのである。

この状態に入れられると、さまざまな結果や意向をきちんと整理して、明確ないくつもの意図として保有していたものが、直接的で条件づけられぬ諸欲求にとって代わられるのである。そのとき、魂は「どうしても……必要です」と叫び出す。どうしても、わたしは見ることが必要です。どうしても、ここで留まることが必要です。どうしても食べることが必要です。どうしても飲むことが必要です。どうしても、この苦痛は、少なくとも一時止まる必要があるのです……など。

乞食に対してタレイランが答えたように、冷ややかに、皮肉に、「わたしにはその必要がわからない」と答えること。そして、愛をこめて、付け加えること。「わたしは、この欲求が、満足されることなく、現在の強さのまま、いや、さらに強さを増して、どんな種類の補償もなく、永遠に、あるいは、魂の肉体の滅びるまで、続くことに同意します」と。

補償とは、同意そのものがそうなのである。だが、同意をそのように評価してはならない。さもないと、そのすべての善が消失してしまう。

営生エネルギーがむき出しにされるとき、宇宙は消失し、欲求が宇宙となる。宇宙全体が、ただひたすら、ある魂の叫びを吐くのに熱中する。「わたしは、ひもじい」、「わたしは痛い」「そんなことはやめてもらわなきゃならない」など。もはやこの世には、欲求の直接的な満足以外には、どんな幸いもないという有様となる。このようなとき、答えること、「わたしには、その必要がわからない」と。それは、魂の永遠な部分を、「わたし」から激しく剥ぎとって、「わたしならざるもの」に釘づけることである。

欲求が無条件的であるならば、欠乏の状態が果てしなく続くことへの同意も、また、無条件的である。そこには、どんな補償も隠れてまぎれこんではいないし、また、それとなしの買収工作も含まれてはいない。なぜなら、わたしの欲求の直接的な満足のほかには、誰にとっても、全宇宙にはどんな幸いもないのだからである。

あらゆる幸いが、まったく、永遠に欠けていてよいとする同意こそは、魂の動きとして、条件に縛られぬ唯一のものである。それだけが、ただひとつの幸いである。

先のような叫びが魂のすべてを占めているときにしか、欲求の直接的な満足を除いて、誰にとっても全宇宙にどんな幸いもないと信じることは起こりえない。そのようなとき、満足しなくてもよいという同意は、無条件的である。これ以外のときに、幸いが欠けていてよいとする同意は、ただ、疲れのあまりの衝動にすぎない。そのときは、いかにもすべてを捨てるという口実にかこつけて、休息という幸いを追求しているのである。この場合の同意は、表面的で、条件づけられている。

このような同意と意志との関係は、奥義に見られる矛盾と知性との関係にあいひとしい。このような同意は、条件を絶している。

それは、存在しないことへの同意である。

存在しないことへの同意は、一切の幸いが欠けていることへの同意である。この同意こそが、まったき幸いの保有を成り立たせるのである。ただ、人がそれを知らないだけである。もし知るならば、幸いは消える。オルフェウスは、エウリディケ(オルフェウスの妻)を見つめたとき、彼女を失った。ニオベ(フリジアの女王、七人の男女の子をもつ)は子どもたちの数の多さを誇ったとき、子どもたちの死を見なければならなかった。

だが、営生エネルギーがむき出しにされたときには、それと意識しながら、幸いを殺してしまうという危険は全然ない。魂は、欠乏と苦痛の叫びにまったく浸されているからである。

魂が、「なぜ……」とか、「わたしは、……でないことに同意する」とか答える一点を除いて、すべてをあげて「どうしても……必要なのだ」と叫ぶとき、人は、その瞬間自分の十字架を負っている。だが、キリストは、日々十字架を負わなければならないといった。どうして、そんなことがなされうるものなのか。毎日毎日、この一点において苦しむという状況に、身を置かねばならないのか。

おそらくそうなのだ。強烈で純粋な喜びの中でも、人は同じく、幸いを欠いている。なぜなら、すべての幸いは、対象の中にあるのだから。喜びの底にも、苦痛の底にあるのと同程度の犠牲、自己放棄がある。

わたしは、いわばあなたの雇われ人でありますように。すなわち、生命のない物体のように、わたしはまったく、あなたの意志に従う者でありますように。 「あなたは、わたしに何も与えたことがない。」「そのわけは、わたしの持っているものみな、あなたのものだからです。」神に等しい者となるためには、自由意志を持たぬ者であれば十分である。

人が自分をいつわらぬときは、エネルギーは、それが自分自身の富としてのエネルギーであるかぎり、費やされるたびごとに、その喪失をきたすものである。利息付きで預けるようなことは、不正直でなければできない。

神から託された預かり物としてのエネルギーについては、別である。この預かり物は利息をつけて増やさなければならない。

(超自然的認識)