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もしわたしが、この世のすべてのものを、いつわりの善であるとして、自分の願望をそこから引き離そうとするならば、わたしは、自分が真理の中にいることを、絶対、無条件に確信できる。そういうものは善ではないこと、この世の何ものも、ただ虚偽の役に立つものにすぎず、善とはみなしがたいこと、この世のすべての目標はおのずと、自壊するものであることを、わたしは知っている。

そういうものから、遠ざかること、――それがすべてである。それ以外に何も必要ではない。それこそは、愛徳のまったきあらわれである。

わたしがそれらから遠ざかるのは、それらを善の観念とつきあわせてみて、虚偽だと判断するからである。そこで、わたしは、地上の事物はことごとく、善のために捨てるのである。わたしの願望、わたしの愛情一切を、地上の事物から引き離して、善のほうへと向けるのである。

だが、そんな善が存在するのかと、問う人があるかもしれない。かまわないではないか。この世の事物は、存在する。だが、それらは善ではない。善が存在しようと、しまいと、善以外に善はないのである。

そしてまた、その善とは、いったいどんなものであろうか。わたしは、何も知っていない。それでも、かまわないではないか。善とは、ただその名にわたしが自分を思いを注ぎつくすとき、それだけでこの世のものが善ではないとの確信をわたしに与えてくれるようなものなのだ。もしわたしが、その名以上のことは何も知らないとしても、わたしはまた、その名以上のことを何ひとつ知る必要もないのだ。ただ、わたしがそれを先に述べたように用いるすべを知っているならば。

もしかすると存在しないもののために、存在するものを捨てるのは、おかしいことではないだろうか。全然おかしくない。存在するものが善ではなく、もしかすると存在しないものが善であるときには。

だが、もしかすると存在しないものなどと、どうしていうのか。善は確かに、善という属性がその上に付加物としてつくような実在を持っていない。善は、この属性のほかに存在を持たない。善は、善であるということ以外に存在を持たない。だが、善は、この実在を満ち溢れるばかりに持っている。善が存在するとか、存在しないとかいうのは、なんの意味もない。ただ、善は善なのである。

この世の事物は、存在する。だから、わたしは自分の能力の中で存在と関連があるものは、この世の事物とは別にしない。この世の事物にはどんな善もないのだから、ただ、善と関連のある能力、すなわち愛だけは、これと別にしたい。

性欲。わたしたちの肉体の中には、いったん抑えがきかなくなると、この世の事物にも幾分の善を見てとらせるような犠牲がある。そういう機構は、ついに壊れてしまうまで、錆びつくにまかせておかねばならない。

わたしは、この世の事物が自分の願望にあたいせぬものであると知りながらも、なおも、そこに自分の願望がつながれているのを見る。わたしには、自分の願望をそこから引き離すエネルギーがないのだ。

意志の努力は、幻想である。
わたし自身の魂がわたしを信頼していない。
わたしはただ、善を願望することを願望できるばかりである。

だが、他の願望が、偶然的な事情によって効力があったり、なかったりするのに対して、この願望はつねに効力がある。なぜなら、黄金への願望は黄金ではないが、それに対して、善への願望は善だからである。

もしある日、わたしの願望が、この世の事物から引き離されて、まったく、専ら善の方向へ向けられることがあるならば、その日、わたしは最高の善を所有することになるであろう。

わたしはそのとき、もはや何も願望することがなくなるというのか。そうではない。願望することが、わたしの善となるのだから。なおも、わたしには何か願望すべきものが残るというのか。残りはしない。わたしは、わたしの願望の対象を所有することになるのだから。願望が、わたしの財宝となるであろう。

だから、聖書は、「この水を飲む者はだれでもつねに渇くであろう」という比喩と、「この水を飲む者は、もはや決して渇くことはないであろう」という比喩を同時に用いているのである。この水とは、渇きのことである。

わたしたちは、裏返しになった状態にあるから、神の諸属性が、否定的なもの(限界のないもの、など)に見え、また同じく、所有は願望という面に隠れて、わたしたちには見えない。わたしたちが願望と名づけているものが、所有を構成しているのである。所有は、願望の仮面をつけている。民話の中の召使いの服を着た王女さまのように。

このことを認めるのが、『ウパニシャッド』もいっているように、願望がひそみかくれている場所を発見することである。願望こそは実在であるが、にせもののために覆われて見えないのである。実在であるとは、すなわち所有のことである。

わたしが、ひとりの友人に会いたいと願望するとき、わたしは、その会見そのものを願望しているのではなく、その会見の中にあると想像される善を願望しているのである。もしわたしが、この願望を切り離し、引き抜き、これを純粋な善のほうへ向けるならば、願望それ自体が、その会見からわたしの期待していた善よりも、はるかにもっと大きい善となるのである。

だから、「わたしのために、あなたがたが捨てたすべてのものが、この世にあってはやくも百倍にもなっているのを見出すであろう」。

捨てること自体が、この百倍に相当する。
キリストのために父を捨てることは、父そのものよりも百倍も大きい善がある、など。

だが、ここからは、自分の捨てたものにともなっていた満足感や楽しみなどが、百倍になるどころか、ほんのわずかすらも見出されるという結果は全然生じない。

所有は、満足ではない。この二つの事柄には、なんの関係もない。
満足、楽しみ、よろこび、仕合せ、大きい幸福など、こういうものはすべてこの世の事物に属し、従って、善ではない。

もし、彼岸の世界について語るときに、よろこびとか大きい幸福とかの語を使うとしても、それは、善という代わりに、ただ比喩としてだけ用いるのである。

「存在する」とか「存在しない」とかは、善に関するかぎり、なんの意味もないのと同様に、欠乏や満足は、善への願望に関するかぎり、なんの意味もない。この願望は、それが善そのものであるのだから、満足させられるということがない。この願望は、それが善そのものであるのだから、剥奪されることもない。

人は、善ではないこの世の事物については、欠乏したり、また満足したりする。肉体の苦痛や安楽さを感じるのと同じように、欠乏や満足を感じるのである。それは、なまで動物的な感じである。だが、そういう願望は取り去らねばならない。

どんな満足も善ではないのだから、どんな欠乏も悪ではない。善には対立するものがない。地上の事物に願望をつなぐことを悪と呼んでもいいかもしれない。願望がこのようにつながれているかぎり、善と悪という一組の相対立するものがあるという幻想が生じる。

願望は、それ自体において善である。もし願望の向け方がわるくても、なおかつ、願望には善の可能性が含まれている。

だから、虚無のほかに地獄はない。善の可能性が存在しないところには、願望も存在しない。そこには考える被造物も存在しない。

ひとたび、すべての願望が神のほうに向けられるならば、人は空腹のときにも食べることを望まない。それでも(禁欲の修行の場合は別として)、食物を手に入れるために、できるかぎりのことはする。

どうしてか。どんな目標も、必要ではないのである。肉体のエネルギーが、そんなふうに方向づけられているのである。

たまたま、飢えている人を見たとしても、その人に食物を受け取ってもらおうと望みはしない。だが、その人が食物を手に入れられるように、できる限りのことをする。自分が必要なものを欠いているときでも。

どうしてか。それは非常な神秘である。
肉体の感受力自体が、ひとたび自分の願望を取り去られてしまうと、普遍的な性質を帯びるようになるのである。

この神秘を、理解することができるだろうか。神の愛に触れ、聖霊と触れて、焼きつくされた肉の感受力は、普遍的なものとなる。

ただ、同情によってだけ不幸をじっと見つめることができる。なぜなら、自分自身の不幸によっては、自分もまた砕かれ、それをじっと見つめることはできない。他人の不幸は、同情がないとしたら不幸とはいえない。

わたしたちの感受力は、生まれながらに普遍的なのであるが、そこにわたしたちの願望がつながれることによって、エゴイストなものとなる。

わたしたちの外にある、無限の<善>のほうへとまったく向けられた願望は、自己へのかえりみを一切ゆるさず、従ってどんなエゴイズムをも追い出す。

人は、不幸が悪であると信じるからこそ、自分の中にある生まれながらの同情心を殺すのである。

同情心は生まれながらにそなわっているのだが、生存本能のために押し殺されている。ただ、魂のすべてが超自然的な愛にとらえつくされるとき、生まれながらの同情心が自由な羽ばたきを取り戻す。

わたしはまだ、この神秘をよく理解していなかった。
これは、善の神秘とも似かよった神秘である。

(超自然的認識)