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善から発出する存在(実在)、それは物質的な世界ではない。そのような世界は存在ではなく、生成と消滅の絶えざる混淆だからである。善から発出する存在は、我々の知性に操作したり定義したりする能力が備わっているような諸構想といったものでもない。この存在は自然や人間にとっては超越的なものである。この存在を照らす光もまた、我々の射程内にある諸科学における知性と同質のものではない。この光もまた超越的な光である。それゆえ、この存在を神とみなし、この光をも神とみなさざるをえない。

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善の報酬は善を行う者が善き人間であるという事実にあり、 悪の処罰は悪を行う者が悪しき人間であるという事実にある。 これらは自動的な報酬であり処罰である。

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自然の領域(心理的なものも含めて)においては、悪と善は絶えず互いを増殖しあうのであるが、 霊的な領域においては、悪は悪しか増殖せず、善は善しか増殖しない。 さらに、善と悪とはそれぞれ、神との接触(同化による接触)または神からの隔絶ということになる。

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われわれの内なる悪はわれわれ自身と同様に有限である。 悪に打ち勝つために援助を仰ぐ善は、われわれの外にあって無限である。 それゆえ、悪が消耗しきってしまうのは絶対的に確実である。

(ギリシアの泉)




悪は、限りがないものである。だが、無限なものではない。 無限なものだけが、限りがないものに、限りをつける。

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悪の単調さ。 なにも新しいものがない。そこでは、すべてが"等質"である。 なにも実在するものがない。そこでは、すべてが架空のものである。 この単調さゆえに、量が非常に大きい役割を果たす。 多くの女をとか、多くの男をとか。 まがいの無限性を追い求めずにはいられない刑罰。 これは、地獄そのものである。

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悪が侵すのは、善ではない。 善は、侵すことができないものだからである。 ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。

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善は、本質的に悪とは別なものである。 悪は複雑で、寸断されているが、善は、ひとつである。 悪は、うわべだけであるが、善は底知れぬ深さをもっている。 悪は行動にあるが、善は非行動、または行動しない行動にある。 悪と同じレベルのものとしてとらえられ、 互いに相対立するものとみなされた善は、刑法上の善にすぎない。

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善と悪、実在性。 善とは、人やものに、より多くの実在性を与えてくれるものであり、 悪とは、実在性を取り去るものである。

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名前は同じであるが、根本的に別々のものである、二つの善がある。 悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。 絶対的なものには、反対のものはない。相対的なものは、絶対的なものの反対ではない。 それは、絶対的なものから出てきたのであるが、この関係は逆ではない。 私たちが望んでいるのは、絶対的な善である。 私たちにたどりつくことができるのは、悪と相関関係にある善である。 主人である令嬢と間違えて女中のほうを愛することに決めるように、 私たちもこの善のほうへと間違っておもむいてしまう。 間違いを起こす原因になるのは、着物である。 相対性に絶対性の外観をまとわせるのは、社会的なものである。

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絶対的な意味での純粋な善は、まったく意志の手を外れたところにある。 善は超越的である。神こそが<善>である。

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まことの善は、ただ外部からくるので、私たちの努力によってもたらされるものでは決してない。 私たちはどんな場合にも、自分より以上によいものを作り出すことはできない。 だから、実際には善に向かって努力を尽くしてみても、それが実を結ぶはずはない。 長いむなしい緊張の果てに、ついに絶望に陥り、もはや何一つ期待しなくなったときに、 外部から不思議とも驚きともいうべきことに、賜物がやってくる。 こうして努力したことによって、私たちの中にあった偽りの充実が一部突き崩されたのだ。 そんな充実よりももっと充実した、神的な空虚がもたらされて、私たちの中に居すわったのだ。

(重力と恩寵)