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この世の外側に、つまり空間と時間の外側に、人間の精神的世界の外側に、人間の諸能力が到達しうるあらゆる領域の外側に、ひとつの実在が存在する。この実在に対して、人間の心の中心につねに位置し、この世のいかなるものも決してその対象となることはない絶対的善を希求するあの要求が応えるのである。この世の中のことのみ人間が考えるとき、必ずつきあたる不条理、解決不能の矛盾を通して、その実在はこの世でもはっきりとその姿を見せる。

この世の現実が事実の唯一の基礎であるのと同じように、そのもうひとつの実在は善の唯一の基礎である。この世に存在しうるあらゆる善、あらゆる真理、あらゆる正義、あらゆる合理性、あらゆる秩序、あらゆる場合における人間の行為の義務への服従、これらのものがこの世に舞い降りてくるのは、ほかでもなくその実在からなのである。善がその実在から舞い降りてくるための唯一の仲介物となるものは、人間の中でその実在に対する注意力と愛とをもつ人々である。その実在があらゆる人間の能力の遠く及ばないところに位置しているとはいえ、人間は、この実在へ自己の注意力と愛を向けることができる。どのような人間であれ、その人にこのような力が欠けていると想定するいかなる根拠もない。このような力とは、それが活動している場合にのみこの世に実在しうるものである。そして、その力が活動するための唯一の条件は同意である。

この世の外側、あらゆる人間の能力の及ばないところに位置するあの実在に向かって、本当に自分の注意力と愛を向けることに同意する人は、それらに成功することができる。この場合、遅かれ早かれ、彼の頭上に善が舞い降り、それが彼を通して彼の周囲に光を広げるのである。

心の中にある絶対的善を希求する気持ちと、潜在的にであれ、この世の外側へ注意力と愛を向け、そこから善を受けとめる力とは、もうひとつのあの実在に例外なくあらゆる人間を結びつける絆である。そのもうひとつの実在を認める人ならば誰でも、したがってこの絆の存在を認める。この絆があるからこそ、例外なくすべての人間を聖なるものとみなし、これに尊敬の念を払わなければならないのだと考えられるのである。このこと以外に、あらゆる人間に等しく尊敬の念を払うべき理由はない。人間がどのような形の信仰、あるいは無信仰を選ぼうとも、このような聖なるものに対する尊敬の念を抱こうとする心の持ち主だけが、この世の現実以外のもうひとつ別のあの実在を本当に認めるのである。事実、このような尊敬の念と縁のない人間は、あのもうひとつの別の実在とも無縁である。

人間とは、中心に善への希求をもち、その周囲に精神的な素材と肉体的な素材とが配置されているものだ、と考えられうるかぎり、あらゆる人間は絶対的に同一である。

人間に対して抱く尊敬の念を間接的に表現する唯一の可能性が存在する。その唯一の可能性とは、人間の本性において、人間の本質ですらある善への希求と感受性とのあいだに確立されたある関係に根ざしている。 いかなる人間であれ、その人の内部にこのような関係が存在しないと信じる根拠は何もない。

他人の行為あるいは不作為のために、一人の人間の生命が破壊されたり、傷を受けて切断されたり、魂や肉体を毀損する時、先に述べた関係があるため、単に感受性ばかりではなく善への渇望までが打撃をこうむるのである。その時、人間が自己の内部に蔵している聖なるものに対して、冒涜が行われたのである。

(ロンドン論集)




善から発出する存在(実在)、それは物質的な世界ではない。そのような世界は存在ではなく、生成と消滅の絶えざる混淆だからである。善から発出する存在は、我々の知性に操作したり定義したりする能力が備わっているような諸構想といったものでもない。この存在は自然や人間にとっては超越的なものである。この存在を照らす光もまた、我々の射程内にある諸科学における知性と同質のものではない。この光もまた超越的な光である。それゆえ、この存在を神とみなし、この光をも神とみなさざるをえない。

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善の報酬は善を行う者が善き人間であるという事実にあり、
悪の処罰は悪を行う者が悪しき人間であるという事実にある。
これらは自動的な報酬であり処罰である。

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自然の領域(心理的なものも含めて)においては、悪と善は絶えず互いを増殖しあうのであるが、
霊的な領域においては、悪は悪しか増殖せず、善は善しか増殖しない。
さらに、善と悪とはそれぞれ、神との接触(同化による接触)または神からの隔絶ということになる。

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われわれの内なる悪はわれわれ自身と同様に有限である。
悪に打ち勝つために援助を仰ぐ善は、われわれの外にあって無限である。
それゆえ、悪が消耗しきってしまうのは絶対的に確実である。

(ギリシアの泉)




悪は、限りがないものである。だが、無限なものではない。
無限なものだけが、限りがないものに、限りをつける。

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悪の単調さ。
なにも新しいものがない。そこでは、すべてが"等質"である。
なにも実在するものがない。そこでは、すべてが架空のものである。
この単調さゆえに、量が非常に大きい役割を果たす。
多くの女をとか、多くの男をとか。
まがいの無限性を追い求めずにはいられない刑罰。
これは、地獄そのものである。

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悪が侵すのは、善ではない。
善は、侵すことができないものだからである。
ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。

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善は、本質的に悪とは別なものである。
悪は複雑で、寸断されているが、善は、ひとつである。
悪は、うわべだけであるが、善は底知れぬ深さをもっている。
悪は行動にあるが、善は非行動、または行動しない行動にある。
悪と同じレベルのものとしてとらえられ、
互いに相対立するものとみなされた善は、刑法上の善にすぎない。

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善と悪、実在性。
善とは、人やものに、より多くの実在性を与えてくれるものであり、
悪とは、実在性を取り去るものである。

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名前は同じであるが、根本的に別々のものである、二つの善がある。
悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。
絶対的なものには、反対のものはない。相対的なものは、絶対的なものの反対ではない。
それは、絶対的なものから出てきたのであるが、この関係は逆ではない。
私たちが望んでいるのは、絶対的な善である。
私たちにたどりつくことができるのは、悪と相関関係にある善である。
主人である令嬢と間違えて女中のほうを愛することに決めるように、
私たちもこの善のほうへと間違っておもむいてしまう。
間違いを起こす原因になるのは、着物である。
相対性に絶対性の外観をまとわせるのは、社会的なものである。

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絶対的な意味での純粋な善は、まったく意志の手を外れたところにある。
善は超越的である。神こそが<善>である。

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まことの善は、ただ外部からくるので、私たちの努力によってもたらされるものでは決してない。
私たちはどんな場合にも、自分より以上によいものを作り出すことはできない。
だから、実際には善に向かって努力を尽くしてみても、それが実を結ぶはずはない。
長いむなしい緊張の果てに、ついに絶望に陥り、もはや何一つ期待しなくなったときに、
外部から不思議とも驚きともいうべきことに、賜物がやってくる。
こうして努力したことによって、私たちの中にあった偽りの充実が一部突き崩されたのだ。
そんな充実よりももっと充実した、神的な空虚がもたらされて、私たちの中に居すわったのだ。

(重力と恩寵)