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完全にどんな不純物もない注意が、祈りである。
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極度に張りつめた注意こそ、人間において創造的な能力を作り上げていくものである。
そして、極度の注意は、宗教的なもの以外には存在しない。
ひとつの時代の創造的霊感の総量は、その時代における極度の注意力の総量、
すなわち真正な宗教の総量と厳密に比例している。
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偶像礼拝が生じるのは、絶対的な善を渇望しながらも、
超自然的な注意力をもたず、それが育ってくるのをじっと忍耐強く待てないというところからである。
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じっと注意を善のほうへと向けたままでいなければならない。
そうすると、エネルギーの質が次第に高まってくる。
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私が<私>と呼ぶものがすべて、受け身とならなければならない。
ただ注意のみ、この<私>が消えてしまうほどに張りつめた注意のみが、私には要求されているのだ。
<私>全体から、注意の光を取り上げてきて、想像も及ばぬものの方へとその光を差し向けていくこと。
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私たちは、善にも悪にも分け隔てをしないようにしなければならない。
だが、分け隔てをしないならば、すなわち、どちらのほうにも等しく注意の光を注ぎかけるならば、
善のほうがおのずと勝ちまさってくる。
それこそが、なくてはならなぬ恩寵である。また、善の定義であり、基準である。
神の霊感は、そこから注意をそらさず、自分から拒んだりしなければ、
間違いなく、どうしようもなく働きかけてくるものである。
そうなるようにと、とくに選ばなくてもよい。それが存在すると認めるのを拒まなければたりる。
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魂の中に永遠性の一点をもつことができたら、
あとはただそれを大事に守り通すほかには何もすることはないのだ。
それは種子のように、自分で大きくなっていくことだろう。
体の中にある不変なものをじっと注視し続けることによって、
魂の中の不変なものを養い育てることができる。
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詩人は、真に実在するものにじっと注意をそそぐことによって、美を生み出す。
人の愛するという行為も、同じである。
今そこに、飢え渇いているその人が私と同じように真に存在するものだと知ること─それだけで十分である。
残りのことは自然に続いて起こってくる。
ある一人の人間の活動の中に、真、善、美といった真正で純粋な価値が生じてくるのは、
いつの場合にも同じ一つの行為を通じてである。
対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為を通じてである。
教育の目的は、注意力の訓練によってこういった行為ができる準備を整えてやることにつきると言っていい。
このほかにも教育にはいろいろと有益な点があるが、いずれも取り上げるに足らない。
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祈りとは純粋な状態での注意にほかならず、学問研究は注意力の訓練といってよいものだから、
学校の勉強はどれもみな、霊的生活の一部でなくてはならない。
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一般的に、知性を訓練する方法は、見つめることである。
実在するものと幻想上のものとを見分けるために、この方法を用いること。
様々な変化の中にも、同じ一つのものにじっと目を向け続けているならば、
ついには、幻想は消え去り、実在が現れてくる。
その条件としては、注意が執着になってはいず、ただ見つめるということでなくてはならない。
(重力と恩寵)
注意力を鍛錬せよ。放心や夢想はいけない。陶酔も不可。専心なき行為への警戒を怠らぬこと。
想像力に支えられた悟性を行使する鍛錬も必要だ。反省の鍛錬も。
(カイエ1)
注意力なしに存在しうるものに向けられた注意力は純粋ではない。注意力と印象の混交物である。
絶対的に純粋な注意力、もっぱら注意力でしかない注意力は、神へと向けられた注意力である。
神は注意力なきところに存在しないのだから。
もっぱら善でしかない善、善以外の特性をもたぬ善が神であるように、
もっぱら注意力でしかない注意力は祈りである。
実在を把握するのは注意力である。思考が注意力に充たされるにしたがって、
思考の対象は存在性を増していく。
注意力は願望と結びつく。意欲ではなく願望と(より正確には同意と結びつく。注意力は同意である。ゆえに善と関わる)
(カイエ3)
学問研究は、キリスト教的にいかに考えられるべきかという問題を解く鍵は、
祈りが注意力をもってなされるということである。祈りは、魂にとって可能なかぎりの注意力をつくして、神のほうへ向かっていくことである。
注意力の性質は、祈りの性質と、大変深い関係がある。単に、心が熱するだけではその補いになることができない。
祈りが激しく、純粋で、神との触れ合いが実現するようなときは、ただ注意力の最も高い部分だけが、神とそのように触れ合っているのである。
しかし、もちろん、注意力はすべて、神のほうへと向けられている。
学校教育は、当然のことながら、注意力のうち、一段低い部分を発達させようとするものである。
けれども、学校教育も、注意力を育て上げるためには、十分有効なものであって、そういう注意力がやがて祈りのときに役に立つのである。
ただし、それには、この目的のために、ただこの目的のためだけに、教育が行われるのでなければならない。
今日では、誰もそれを知っていないように見えるのだが、注意力の形成こそ、学習の真の目的であり、ほとんど唯一の関心の的である。
学校教育の中の大部分には、またそれ自体に固有な一定の目標というものがある。
しかし、そういう目標は二義的なものにすぎない。真に注意力に訴えかける教育なら、どんなものでも同じ程度に、ほとんどひとしく興味がある。
神を愛する中学生、大学生なら、「私は数学が好きだ」とか、「私はフランス語が好きだ」とか、「私はギリシア語が好きだ」とかいうようなことは、
決して口にしてはならない。学生たちは、そういうもののすべてが好きになれるようにならなければならない。
なぜなら、それらはどれもこれも、いったん神のほうへ向けられるならば、まさに祈りの本質そのものとなる注意力を育て上げてくれるのだからである。
幾何学に対して才能がないとか、生まれつき好きではないのだとかいうようなことは、
問題を解いたり、照明を吟味したりして、注意力を伸ばしていく妨げにはならない。
むしろ。その反対だと言ってもいいぐらいである。そのほうがかえって好都合なのだと言ってもいいぐらいである。
いかなる場合でも、それが本当のものでありさえすれば、注意力のための努力は決して無駄になることがない。
そういう努力は、いつの場合でも、霊的な意味で完全に効果を発するのであり、したがってまた、より一段低い知性の段階においても一そう効果を及ぼすのである。
なぜなら、知性を照らすものこそ、こういう霊的な光だからである。
何かある幾何学の問題を解くのに、真の注意力をもって頑張ってみたが、一時間経って、はじめの頃とそんなに進歩していないように見える場合、
それでもやはり、この一時間の中の一分一分ごとに、さらに神秘的な別の次元においては進歩してきたのである。
そのことが感じられなくても、また、そのことが知られずにいても、表面上は不毛で、なんの果実を結ばないように見えるこういう努力が、
魂の中に輝き出す光を育み育ててきたのである。その果実は、たぶん数学なんかとはまったく縁のない、何かある知性の領域のうちに、
おそらくふたたび現れてくるに違いない。そしてまた、効果のないようにみえるこういう努力をつくしてきた人が、やがておそらくいつの日か、
こういう努力のゆえに、ラシーヌの詩の一行の美しさを、より一そう直接に理解することができるようになるに違いない。
しかし、この努力の果実が、祈りの中にふたたび現れてくるということこそ、確かであり、疑いのないことである。
信仰を支えてくれる最良の土台は、天の父にパンを求めるならば、決して石を与えられることはないと保証されていることである。
あからさまな宗教的信仰の外側にあっても、ひとりの人間が、真理を把握することのできる能力を一そう身につけたいという一途な願いをもって、
注意力をこらして努力するならば、その度ごとに、たとえその努力が目に見えるどんな果実も生み出さなかったとしても、
その能力は一そう大きくなっていくのである。エスキモーのある物語の中に、こんなふうにして光ができたのだと説いているものがある。
「“からす”は、夜がいつまでも続いて、食物を見つけることができないので、光がほしいと思った。そこで、大地は照らし出された」。
もし、本当に願いがあるならば、そして、その願いの対象が、本当に光であるならば、光への願いが光を生むのである。
注意力をこらしての努力があるところに、まさに本当の願いがある。それ以外の動機が何一つなければ、まさに光そのものが、願い求められているのである。
注意力をこらしての努力が、何年もの間、表面上は実りのないままに終わっているように見えても、やがていつの日か、この努力に正確に即応した光が現れて、
魂を満たすのである。どのような努力でも、世界中の何ものも奪い去ることができない宝物に、なおいくらかの黄金を付け加えるものである。
だから、学習にあたっては、よい点数を取ろうとか、試験をパスしようとか、何か学校の成績をあげようとかいったふうな望みを持たずに、
好き嫌いや生まれつきの才能に関係なしに、どんな課業も、祈りの本質をなす注意力の形成に役立つのだと思って、同じように一生懸命にやらなければならない。
一つの課業に集中しているときには、それを正しく果たそうという意志を持たなければならない。
なぜなら、そういう意志がなければ、そこに本当の努力があると言えないからである。
しかも、こういう直接の目標を通じて、心の奥深くでは、祈りを目指して注意力を育て上げる方向へと向かわねばならない。
ちょうど、何かを書こうとして、紙の上に文字の形を描いていくとき、目指すのは、
こういう形を描くことではなく、一つの思想を表現することであるのと同じである。
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注意力は、ひとつの努力であり、おそらくはすべての努力のうちで最大の努力である。
二十分間、集中的に、疲労なしに注意力を働かすほうが、
三時間、ひたいにしわをよせて没頭したあげく、
ようやく義務を果たしたという気持ちで「ああ、よくがんばったもんだ」などと言うよりもましである。
しかし、見た目はとにかく、このことはまた、はるかに困難なことである。
私たちの魂のなかには、肉体の疲労を厭うよりももっとはげしく、
真の注意力に対して嫌悪の念を起こさせるような何ものかがひそんでいる。
その何ものかは、肉体よりももっと、悪に近いものである。
だから、本当に注意力を働かすときには、そのつど、悪それ自体を打ち破っているのである。
このような志をもって注意力を働かしていくならば、十五分間の注意は多くの善業を果たすのと同じ価値がある。
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注意力とは、自分の思考を停止させ、思考を待機状態にし、
思考を空しくして、対象へ入っていきやすいようにし、
利用すべき既習のさまざまな知識を、自分の内部で思考のごく近くの、思考よりは低くて、
直接に関係のない段階において保持していることである。
思考は、これまで形成された、個々の特殊な思考の状態において、
いわば山の上にいる人間のようなものでなければならない。
山の上にいる人間は、前方を見つめていながら、同時に自分の下方にも、自分では見つめていなくても、
多くの森や平野が見えているのである。また特に、思考は自らを空しくし、待機状態にあって、
何も求めないようでなければならない。しかも、思考のなかへ入り込もうとする対象を、
その赤裸な真実のままに迎え入れる準備ができていなければならない。
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それはただ、目を覚ましていることであり、待ち望むことであり、注意していることである。
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若い時代、青春の時代を、ただこういう注意力を育て上げることに専念して過ごす人たちは幸いである。
そういう人たちはおそらく、畑や工場で働く兄弟たちと同じように、祝福された状態の近くにいる。
近くといっても、そのあり方は異なる。農夫や労働者には、どこか神に近いところがあり、
それがほかの者には及びもつかぬ香りを放っている。
こういう性質は、貧しさとか、社会的にあまり尊敬されていないこととか、
いつまでも続いて果てしのない苦しみとかの根底にひそんでいるものである。
しかし、仕事それ自体をじっくり考察してみると、学問研究は、
こうしう注意力がその中心にあるという点において、何よりも神に近いものである。
何年も何年も学問研究の日々を過ごしながら、自分のうちにこの注意力を伸ばすことをせずに終わった人は、
大きい宝を失ったのと同然である。
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注意力を本質とするのは、神への愛だけではない。
隣人愛もまた、同じ愛であることを私たちも知ってのとおりであり、同じ本質からできあがっている。
不幸な人々がこの世において必要としているのは、
ただ自分たちに注意を向けてくれることのできる人たちだけである。
不幸な人に注意を向けることができる能力は、めったに見られないものであり、大変難しいものである。
それは、ほとんど奇跡に近い、奇跡であるといってもよい。
そういう能力を持っていると信じ込んでいる人々のなかのほとんどは、実際は持っていないのである。
熱心さや、一時の激情や、同情だけでは十分ではない。
隣人愛の極致は、ただ、「君はどのように苦しんでいるのか」と問いかけることができるということに尽きる。
すなわち、不幸な人の存在を、なにか陳列品の一種のようにみなしたり、
「不幸な者」というレッテルを貼られた社会の一部門の見本のようにみなしたりせず、
あくまで私たちと正確に同じ一人の人間と見ていくことである。その人間が、たまたま、不幸のために、
他の者には追随することのできないしるしを身に帯びるにいたったのだと知ることである。
そのためには、ただ不幸な人の上にいちずな思いを込めた目を向けることができれば、
それで十分であり、またそれがどうしても必要なことである。
その目は、何よりも注意する目である。
こうして魂は、自分自身のものをことごとく、捨て去って、今その目で、あるがままに、
まったき真実のうちに見つめているものを、自分のうちに迎え入れることができる。
注意力を働かす能力を持つ人だけに、このことが可能である。
だから、逆説的なことを言うようだが、次のことは真実である。
ラテン語の翻訳ひとつ、幾何の問題ひとつにしても、たとえその結果がかんばしくなくても、
ただそれにふさわしい努力を傾けたということがあれば、それだけでもう、後になって機会が到来したとき、
いつかは、不幸な人がこの上ない苦悩に苦しんでいるのに際して、
その人を救うことができる助けの手をしっかりと差し伸べることができるようになるのである。
この真理を理解することのできる青年、高潔な心を持ち、
何にもましてこのような果実を願い求める青年があれば、学問研究は、どんな宗教的信仰を持たなくても、
霊的にも完全な効果をあげることになるであろう。
学校での学習は、真珠の隠されている畑みたいなものである。
その真珠をあがない取るためには、自分の財産をことごとく売り払い、
自分のためには何ひとつ残しておかないでおくだけの価値がある。
(神を待ちのぞむ)
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