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創造は、愛のわざであり、永遠に続くものである。 あらゆる瞬間において、私たちが存在するということは、神の私たちに対する愛である。 だが、神はただ自分自身をしか愛することができない。 私たちに対する神の愛は、私たちを通して自分自身を愛する愛である。 だから、私たちに存在を与える神は、存在しなくてもよいという私たちの同意があればと期待する。

私たちの存在は、ただ神の期待と、存在しなくてもよいという私たちの同意とから成り立っている。 永遠に果てしなく、神は私たちに対して、私たちに与えたこの存在を、乞い求めている。 それを与えたのは、私たちからそれを乞い求めるためである。

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神が、今私のいる地点からしか見られない創造の風景を、ぜひ見たいと思っていることは容易に想像できる。 だが、この私が邪魔立てしているのだ。 私は、神がこの風景を見ることができるように、引き下がらなくてはならない。

私は、神から愛されている人々と神とが接触できるように、身を引かねばならない 私がそこにいるのは、つつしみのないことなのだ。 まるで、恋しあうふたりや、親しい友人ふたりのあいだに割り込むようなものなのだ。 私は、フィアンセがくるのを待っている若い女性ではない。 そうではなく、婚約者たちのそばから離れようとしない、うるさい第三者なのだ。 婚約者たちが本当にふたりきりでいられるように、第三者は立ち去らねばならない。

ただ、この私が姿を消してしまえるならば、 神と、今私が歩んでいる大地、今私の耳に波音を響かせている海…などとのあいだに、 完全な愛のつながりが生じるだろう。

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どうか、私は消えていけますように。
今私に見られているものが、もはや私に見られるものではなくなることによって、完全に美しくなれますように。

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私は、この創造の世界がもう私には感じられなくなるようとは、少しも望んでいない。 そうではなく、世界を感じているのは私個人ではなくなるようにと望んでいるのだ。 この私には、あまりにも高いその秘密を打ち明けてくれることはできない。

私は去っていきたい。創造主と創造物とがその秘密を互いに交わしあうことだろう。 私がもういなくなれば、そのときの光景はそんなぐあいになるのだ…

私がどこかにいるときには、私は呼吸をし、心臓を脈打たせることによって、 この大空と大地の沈黙を汚しているのだ。

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どうしようもない必然、貧困、窮迫、押しつぶすばかりに重く迫る欠乏と極度の疲労を誘い出す労働、 残酷さ、迫害、非業の死、強制、恐怖、病苦など─これらはみな、神の愛である。 神は、私たちを愛するからこそ、私たちが神を愛することができるようにと、私たちから遠くへと退くのである。

いったい、もし私たちが空間や時間や物質に保護されることなく、 じかに神の愛の照射にさらされるとしたら、陽にさらされた水のように蒸発してしまうであろう。 私たちの中には、愛するゆえに<私>を捨て去るというにたるだけの<私>もなくなってしまうだろう。

必然は、私たちが存在できるようにと、神と私たちとのあいだに張られた幕である。 私たちは、存在するのをやめるために、この幕を突き破らなければならない。

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放棄。 創造における、神の放棄にならうこと。 神は─ある意味において─すべてであることを放棄する。 私たちは、何ものかであることを放棄しなければならない。 それこそがも私たちにとってのただひとつの善である。

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私たちは、自分自身が創造から離脱することによって、世界の創造にあずかりうる。

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神が私に存在を与えてくれたのは、私がそれを神に返すためである。 それは、いわば、罠みたいに人を試すためのもので、< おとぎ話や秘伝伝授の物語によく出てくるたぐいのものである。 この賜物を私が受け取るならば、それは有害な、命に関わるものとなる。 それを拒むことによって、その賜物のありがたさが現われてくる。 神は、私が神の外側にあって存在することを許してくれる。 この許しを拒むのが、私のつとめである。

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私たちは、もって生まれたまがいものの神性を捨てて、むなしくならなければならない。 自分が無であることをいったん理解したならば、あらゆる努力の目標は、無となることである。 この目的をめざしてすべてを耐え忍び、この目的をめざして働き、この目的をめざして祈るのである。 神よ、どうか私を無とならせてください。私が無となるにつれて、神は私を通して自分自身を愛する。

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神があると考えて、充実した喜びを感じるならば、 自分は存在しないのだと知っても、同じ充実感を味わうべきであろう。 これらのことは、同じ考えなのだから。 そして、この知識は、ただ苦しみと死を通じて感覚にまで拡大されていくのだ。

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神は、みずからを隠すことなしには、創造することができなかった。 そうでないと、ただ神だけしかいないことになる。 だから、聖性もまた、ある程度は、意識に対してすらも隠されていなければならない。 そして、この世においても、隠されていなければならない。

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神が力ずくで私を奪い取ってくれる必要があるのだ。 なぜなら、今もし死が、肉のヴェールをはぎ取って、 私を神の顔のまん前に突き出すならば、私は逃げ出してしまうだろうから。

(重力と恩寵)




神は、あたかも存在しているとの外観をもつ非存在として、私を創造した。 愛により、この見かけだけの存在を捨て去り、 存在の充満によって私がまったく無とならしめられるようにと。

神が私を、存在の外観を呈している非存在として創造したのは、 愛によって、この私が私の存在であると信じているものを捨て去り、虚無から出て行くためである。 そのときにはもはや、<わたし>は存在しない。

(超自然的認識)




人間は存在をもたない。 私のものなどなにもない。

(カイエ1)




神の愛は、よろこびと苦しみが"ひとしく"感謝の気持ちを呼び起こすときに、純粋である。

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すべてを受け入れなければならない。 すべてのもの、自分の内にあるもの、外にあるものを問わず、どんな例外も許さず、 全宇宙にわたって、等しい愛をもって受け入れなければならない。

(カイエ2)




真の精神的な死とは、運命がもたらす万象への服従の同意である。 運命は私が「私」である所以の一切を奪えるからだ。 おのれが他の何ものでもない一介の被造物にすぎぬことを受諾する。いわば全存在を失うことを受諾する。

私たちは被造物にすぎない。 ところで、被造物にすぎぬことを受諾するとは、いわば無にすぎぬことを受諾することだ。 神が私たちのあずから知らぬまに与えてくれた存在、それは非存在である。 非存在を願い求めるならば、私たちは非存在を有する。気づきさえすればよいのだ。

存在しようと欲することが罪であり、存在すると思い込むことが罰である。 存在するまいと欲することが償いであり、存在しないと気づくことが救いである。 私たちに自分は存在すると思い込ませたのはアダムである。 私たちに自分が存在しないことを教えたのはキリストである。

私たちが非存在であると教えるために、神はみずから非存在となった。 神にとって犠牲とは、自分が存在すると思い込むことを人間に赦すことだ。 人間にとっての犠牲とは、自分は存在しないことを認めることだ。

おのれの非存在をしかと認めた人々は神の側に移行する。 おのれが存在しないと知りつつ、なお非存在に同意せずにいる、それが地獄である。

(カイエ4)




魂の中にある愛は、作られたものではなく、神の愛である。 神が神に対される愛であり、それが魂を通して愛されるのである。 ただ神だけが、神を愛することができる。 私たちとしてはただ、魂の中に、この愛が移ってくることができるように、 自分自身の感情を捨て去るように心がけることしかできない。 これがまさに自己を否定することである。 私たちが創られたのは、ただこのように心を決めるためにほかならない。

(ギリシアの泉)