



救いとは、死に同意することである。
(超自然的認識)
死をまったき消滅として受容せねばならない。
-
魂の不死を信じるのではなく、全生涯を死の瞬間にむけた準備とみなすこと。
神を信じるのではなく、宇宙を愛すること。
(カイエ3)
私は、死の瞬間が人生の規範であり目的であるといつも信じてきました。
人間にとってふさわしい生き方をしている人々にとっては、死の瞬間は、時間の無限小の部分と交換に、
純粋な、裸の、確実な、永遠の真理がたましいの中に入り込む瞬間である考えておりました。
それ以外の幸福を、自分のために得たいと願ったことは一度もなかったと申し上げることができます。
(神を待ちのぞむ)
例外なくいっさいの可能な目標を放棄する、
死が間近に迫ったときのように、未来はなく虚無しか存在しないがごとくすべてを放棄する。これが離脱である。
ゆえに古代の秘儀宗教においても、プラトン哲学においても、
サンスクリットの聖典においても、キリスト教においても、おそらく時代と地域を問わず、
いつの世も離脱は死に譬えられ、叡智への参入は一種の死による通過儀式(イニシエーション)とみなされてきた。
しかし、この離脱は目的を欠いてはいない。
離脱せる思考は、さまざまな価値に真の序列をもたらすという目的を有する。
ひとつの生きかた、よりよき生をめざすという目的を。
といっても彼岸での生ではなく、此岸での、いますぐ始めるべき生である。
この意味で、哲学は死を介して生へと方向づけられている。
(詳伝 シモーヌ・ヴェイユ1)
死を愛することができるために、生を深く愛さなければならない。
-
真理を愛することは、真空を持ちこたえること、その結果として死を受け入れることを意味する。
真理は、死の側にある。
-
未来にどんな代償も求めずに、過去をそのまま受け入れること。
今ただちに、時間を停止させること。それはまた、死を受け入れることでもある。
-
死。過去も未来もない。瞬間的な状態。永遠に近づくためには欠かせないもの。
-
自分を死なせるための二つの方法。自殺すること、または、執着から離れること。
自分の愛しているすべてのものを思いによって死なせること。
それこそが、ただひとつの死ぬ法である。
自分の愛するものが不死であるようにと願わないこと。
人間に対しては、誰であろうとその人の不死も、死も、願わないこと。
-
死者に対する敬虔さ。すべては存在しないもののために、すること。
他者の死にもとづく苦痛は、真空により、均衡の喪失によって生じる苦痛である。
これから後は対象もなく、したがって報いもなくなる努力。
もし想像力がその補いをするならば、落ちる一方である。
「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
ところで、自分自身の死についても、同じではないだろうか。
対象とか報いは、未来にある。未来を奪い去ること、真空、均衡の喪失。
だからこそ、「哲学することは、死を学ぶことである」。
だからこそ、「祈ることは、死に似ている」のである。
-
義人であるためには、裸で、死んでいなくてはならない。なんら想像上のことではなく。
だから、義の模範となる人は、裸で、死んでいなくてはならないのだ。
(重力と恩寵)
真理は裸性においてのみ顕れる。そして裸性は死である。
すなわち、それぞれの人間にとって生存理由を構成しているすべての執着からの断絶である。
近親者や、他者の意見、物質的および精神的所有物など、すべてである。
義しい人間となるには自己認識が要請されるのであるが、
そのためには現世においてすでに裸で死んでいなければならない。
良心の糾明は我々の生存理由を構成するすべての執着からの断絶を要請するのである。
魂がまなざしを神のほうに方向転換するためには、
生成し、消滅し、変遷する事物、すなわち時間の相のもとにある事物から、
魂全体を引き離さなければならない。魂全体をである。つまり、感覚的な事物に根を下ろし、
そこから生命を汲み取っている、魂の感覚的で肉的な部分も含まれるのである。
魂を根こぎにしなければならない。それはひとつの死である。
転回(回心)とはこの"死"のことである。
我々が執着しているある事物やある人物の喪失は、
エネルギーの喪失に対応するがごとき意気阻喪によって直接的に感知される。
我々が執着している事物と人物の総和によって供給される生命エネルギーを、ことごとく喪失しなければならない。
だから、それは確かにひとつの死である。
かくて、まったき離脱は神への愛の条件である。
魂が全身全霊をこめて神に向かうために、この世から完全に離脱する運動を完遂したとき、
魂は神から魂のうちに降下する真理によって照らされるのである。
(ギリシアの泉)


|