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苦しみの価値。
苦しみを避けるために人はなんでもするということを考えて、私は苦しみの価値を信じる。

(シモーヌ・ヴェイユ / カイエ1)




私は、自分の苦しみが有益であるからというので、それを愛するのではいけない。
苦しみが「存在する」から、愛するのでなければならない。

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人間の構造。誰でも苦しんでいる人は、
自分の苦しみを知らせたいとつとめる─他人につらく当たったり、同情をそそったりすることによって─
それは、苦しみを減らすためであり、事実、そうすることによって、苦しみを減らせる。
ずっと低いところにいる人、誰も憐れんでくれず、
誰にもつらく当たる権限をもたない人の場合(子供がないとか、愛してくれる人がいないとかして)
その苦しみは、自分の中に残って、自分を毒する。それは、重力のように圧倒的にのしかかる。
どうして、そこから解き放たれるだろうか。重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。

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つらく苦しいことを受け入れること。
受け入れたことがつらさに跳ね返って、つらさを減らすというのではいけない。
そうでないと、受け入れるということの力と純粋さが、それに応じて減ってしまう。
受け入れの目的は、つらく苦しいことをつらく苦しいこととして受け取るのであって、それ以外のことではない。
これらの事柄─無数の恐ろしい、苦しみの事柄─には、
何かしら償いになるものが含まれているからというので受け入れるのではなく、その事柄自体を受け入れること。
それらは存在するからというだけで、それらが存在することを認めること。

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苦しみがなくならないようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。
そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること。

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キリスト教の何よりも偉大な点は、苦しみに対して超自然的な癒しを求めようとせず、
むしろ苦しみを超自然的に活かす道を求めているところにある。

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できるかぎり不幸を避けようとつとめなければならない。
自分の出会う不幸が、完全に純粋で、完全につらく苦しいものであるために。

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本性からすれば、私たちは苦しみを避けて快楽を求めるものである。
だが、実のところは、快楽と苦痛とは、切り離せない組み合わせである。

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苦しむこと、教えられること、変化すること。
入門者にとって必要なことは、何かを学び知ることではなく、
自分の中にある変化が生じて、教えを受けるにふさわしい状態とされることである。
ギリシャ語で「パトス」とは、同時に「苦しみ」と「変容」とを意味する。

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苦痛や極度の疲労がこうじて、
魂の中にこれは果てしなく続くのではないかとの感じが生じるまでになったとき、
その果てしなさを素直に受け入れ、愛しつつ、それをじっと見つめ続けるならば、
人は、この世からもぎ離されて、永遠にいたる。

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苦痛においてあくまで慰めを求めてはならない。
真の幸福は、慰めとか、苦痛とかの領域を超えたところにあるのだ。

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肉体の苦しみ(それに、物質的な窮乏)は、勇気ある人たちにとって、
忍耐と精神力をためす機会になることが多い。
だが、それらをもっとよく役立たせる道がある。
だから、私にとっては苦しみが単に自分をためす機会に終わらないように。
人間の悲惨を身にしみて感じさせるあかしとなるように。
まったく受け身の態度で、それらを受け忍ぶことができるように。
何ごとが起ころうとも、不幸が大きすぎるなどと思うことがあろうか。
なぜなら、不幸に烈しく襲われ、不幸のために屈従を強いられてこそ、
人間の悲惨を知ることができるのだから。
それを知ることこそが、あらゆる知恵への門なのであるから。

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仮象が存在にはりついている。
ただ苦痛のみが、このふたつを無理に引き剥がすことができる。

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知識の源泉としての、苦しみと楽しみ。
蛇はアダムとエバに、知ることを得させようとした。
セイレーンたちは、オデュッセウスに知識を与えた。
こういう物語は、魂が快楽のうちに知識を求めうとして自分を滅ぼすことを教えている。それは、なぜか。
快楽はおそらく、その中に知識を求めることさえしなければ、罪のないものであろう。
知識を求めることが許されているのは、ただ苦しみの中だけである。

(シモーヌ・ヴェイユ / 重力と恩寵)