大怪獣。それは「社会(群居体)」「社会的なもの(群居するもの)」「集団」。
人間を脅かしつつ、肥え太り、力だけを行使する存在。
大怪獣とは、偶像礼拝の唯一の対象、神の唯一の代用品、
このわたくしから限りなく遠く離れていて、しかも私自身であるものの唯一の偽物である。
-
社会的なものは、善が入り込めない領域である。
社会的なものは、どうみてもこの世の君であるサタンの領分である。
社会的なものについては、せめても悪を制限しようとする試み以外には、なにもなすべきことがない。
教会のような、みずからを神よりのものであると称している社会が危険なのは、おそらく、
悪に汚されているためよりも、その中に善の代用品を隠し持っているという理由による。
社会的なものの上に貼られた、神のものというレッテル。
ありとあらゆる乱れを秘め隠し、人を酔いに誘うこの雑然としたもの。変装した悪魔。
-
この世においては、ただ一つのものだけが究極的なものとみなされる可能性をもつ。
それは個人としての人間からみるとき、一種の超越性を有しているからである。
すなわち、それは、集団的なものである。
集団的なものは、あらゆる偶像礼拝の対象であり、それが私たちをこの地上に縛りつけるのである。
守銭奴根性において、黄金は社会的なものである。
野心においては、権力は社会的なものである。科学や芸術もそうである。
-
社会は洞窟であるが、そこから出るには、孤独でなくてはならない。
-
社会的なもののために、心を用いすぎる。余分なエネルギー(想像力に富んだ)は、
大部分社会的なもののためにとられてしまって、ほかへ及んでいかない。
エネルギーをそこから引き離してやらねばならない。それを引き離すのは何よりも難しいことである。
社会の構造についてじっくり考えるのは、この点で、一義的に重要な、清めのわざである。
-
人間が社会的なものよりもすぐれた存在となるのは、ただ超越的なもの、超自然的なもの、
真に霊的なものへと入っていくことによってである。
そのときまでは、事実上、人間が何をしようと、社会的なもののほうが人間を超えている。
-
社会は、無神論的で、物質主義的で、自己のみを崇拝する、大怪獣である。
-
にせの神(すなわち、社会獣)。
-
どんな国においても、愛の名において、
各個人の霊的発展の条件となるものならどんなものでも愛していいのだし、また愛さねばならない。
すなわち、一方では社会秩序を、たとえどんなに悪いものでも、無秩序よりはましだということで。
また、他方、言語や儀式や習慣や美にあずかりうるすべてのもの、
あるひとつの国の生活を包みこんでいるすべての詩を。
だが、国家は、そのままでは、超自然的な愛の対象とはならない。
それは、魂をもたない、大怪獣である。
-
愛国心。完全な愛以外の愛ならば持ってはならない。
国家は、完全な愛の対象となることができない。
だが、国(国家ではなく、人間がそこで生まれ、生活する環境)ならば、
永遠の伝統を担い続ける場所として、愛の対象となることができる。
どんな国でもそうなることができる。
(重力と恩寵)
最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、
人格の側に集団的なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである。
-
集団の圧力は宣伝を介して大衆に加えられる。宣伝の公然たる目的は説得であって光の伝達ではない。
宣伝とは精神の隷属化の試みであることをヒトラーは見抜いた。
(ロンドン論集)
真の必要、真の欲求、真の方策、真の利害は、間接的にしか影響をおよぼさない。
群衆の意識に達しないからだ。このうえなく単純な現実であっても意識するには注意力が必要なのだが、群衆は注意力を有しない。
この点では、教養や教育や社会的序列上の地位もたいした差をもたらさない。
産業界の大物たちも百人または二百人と一堂に会するならば、労働者や小売業者の集会とさほど変わらぬ無意識の群れと化す。
-
現代の社会は民衆をたえず食らいこむ巨大な機械に似ており、だれもその操作法を知らない。
社会の進歩に身を捧げる人は、機会を止めようとして歯車や伝動ベルトにしがみつき、
自分のほうが粉々に粉砕されてしまう人びとに似ている。
しかし、ある時点で無力であっても、この無力さを決定的とみなしてはならぬ以上、
自己に忠実であるのをやめる口実にはならず、いかなる仮面をかぶっているにせよ的に屈服してよい理由にもならない。
ファシズム、デモクラシー、プロレタリア独裁といったあらゆる名称のもとに身をやつしうるとしても、
宿敵が行政と警察と軍事からなる機構であることに変わりはない。私たちの仲間にあからさまに敵対する正面の敵ではなく、
保護者ぶりつつ私たちの奴隷化をくわだてる相手こそが真の敵なのである。
(シモーヌ・ヴェーユ著作集1 戦争と革命への省察)
人間は社会的な動物であるが、社会的なものは悪である。
われわれにはいかんともしがたい。
それでもこの事実を受けいれることは禁じられている。
さもなくば魂を失ってしまう。
であるから人生は引き裂かれたものにならざるをえない。
この世界は人間が生きるようにはなっていない。
だからもうひとつの世界へ逃げなければならない。
しかしもうひとつの世界への扉は閉じられている。
扉が開くまでいくど叩かねばならぬことか。
ほんとうになかに入るためには、敷居のところでとどまらぬためには、
社会的な存在であることをやめねばならない。
-
社会において個人は無限に微小である。
均衡とは、ひとつの秩序による他のより超越的な秩序への服従である。そのとき第二の秩序は無限に微小なかたちで第一の秩序のうちに現存する。
かくて真の王国(ロワイヨム)は完璧な都市(シテ)となろう。
個々の人間は社会にあって無限に微小でありながら、社会を超越し、無限な偉大な秩序を表象する。ストア派の人びといわく、賢者は奴隷であっても王である。
超自然にふれる人間は本質において王である。無限に微小なかたちであるにせよ、社会を超越する秩序を社会内に現存させるからだ。
当人が社会的序列にいかなる位置を占めているかは、まったくどうでもよい。その位置にあって重心となる。
なにか行動を起こせるわけではない。あるいは、無限に微小であるがゆえに無限に微小な行動しか起こせない。その存在だけが、無限に、いや無限をこえて、偉大なのだ。
社会的次元での偉大さのほうは、巨獣からエネルギーの大半を得た者だけが手にできる。ただし超自然的の分け前は得られない。
イスラエルは超自然的な社会生活をめざす実験である。その種のものとしては上首尾であったといえよう。もう十分だ。繰り返すにはおよばない。巨獣がいかなる神の啓示を仰ぎうるかは、実験結果であはらかだ。聖書とは社会的に翻訳された啓示である。
ローマは無神論的で物質主義的で自己しか崇めない巨獣である。イスラエルは宗教的な巨獣である。どちらも愛することはできない。巨獣はつねにおぞましい。
(カイエ3)
悪魔は集団的である。
これが『黙示録』が例の<獣>について明瞭に示すところのものだ。
これは明らかにプラトンの<巨獣>である。
傲慢は悪魔に特徴的な属性である。
ところで傲慢とは社会的なものである。慢心。
傲慢は社会的な保身能力である。謙遜は社会的抹殺の容認である。
(カイエ4)
「巨獣」の意見は必ずしも真理にもとるわけではない。
これらの意見はいきあたりばったりに形成される。
「巨獣」は邪な事柄を好み、善い事柄を憎むことがある。
しかし他方で、「巨獣」が好む善い事柄もあれば、「巨獣」が憎む邪な事柄もある。
とはいえ、「巨獣」のあれやこれやの意見が真理に合致していることがあっても、
それらは本質的に真理とはなんの関係もない。
困ったことには、神に従っているのだと自分に言いながら、
実は「巨獣」に従っているという事態がおおいにありうるのだ。
言葉はいつでもどのようなものにもレッテルとして利用できるからである。
だから、ある点において真理に合致した思想や行動を採択したからといって、
その点において「巨獣」の奴隷ではないという証明にはならない。
(ギリシアの泉)
愛国主義というものに私は恐れを抱いております。
私の申します愛国主義とは、この地上の祖国に付与されている感情を指しています。
この種のいかなる感情も、私は、自分のために望みません。
この種のいかなる感情も、その対象が何であれ、
私にとって不吉なものだということを知っており、確信をもってそう感じているのです。
聖ルカ福音書にある、この世の諸王国に関してのキリストに対する悪魔の言葉ほど深くうがったことを、
誰も言ったことも、書いたことも決してありませんでした。
「私は、この権威と国々の栄華とをみんなあなたにあげましょう。
なぜなら、これらの権威は私に任せられていて、誰でも好きな人にあげてよいのですから」。
その結果、社会的なものは不可避的に悪魔の領域となるのであります。
肉は「わたし」と言わせようとし、悪魔は「わたしたち」と言わせようとするのです。
あるいは、専制者たちのように、集団的意味を含む「われ」という言葉を言わせるのです。
そして、その固有の使命に応じて、悪魔は、聖なるもの、いや聖なるものの代用品の悪しき模倣を作り出すのです。
社会的ということは、ある国に関するあらゆることを意味するのではなく、
ただ、集団的諸感情を意味しているのです。
ある環境の中に入ることが許され、「わたしたち」と呼び合うある環境の中に住み、
この「わたしたち」の一部分となり、いかなる人間的環境であれ、
その中で自分の家にいるように感じることを私は望みません。
私はたった一人であり、例外なく、いかなる人間的環境とも無縁で、
追放された状態にあることが、私にとっては必要ですし、
また私に命じられたことであるという感じがいたします。
(神を待ちのぞむ)
|