



美しいものは、必然的なものである。
それは、それ自体の法則に、ただその法則だけにかなうものであろうとして、しかも善に従っている。
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自然の中で美しいもの、感覚的な印象と必然性の感覚との一致。
それは(まず第一に)そのようであらねばならないし、そしてまさに、そのようであるのだ。
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美しいものには、相反するもののさまざまな一致が含まれているのだが、
特に瞬間的なものと永遠なものとの一致が秘められている。
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美しいものとは、人がじっと注視できるものである。
何時間ものあいだ、見つめていることのできる一基の彫像、一枚の絵。
美しいものとは、何かしらそこに注意を向けることのできるもののことである。
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見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である。
自分で考えつくことができ、欲求することができ、願望することができるかぎり、美しいものは出現しない。
だからこそ、すべての美の中には、除き去ることができない矛盾、苦、欠如が見出される。
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美しいものは、官能に訴えかけるもので、
そこには人を遠くへ押しやり、あきらめさせるような力が含まれている。
心の最も奥深くでのあきらめ、想像力すらも捨てさせてしまうようなものが、その中にはある。
これがほかの欲望の対象なら、どんなものでも食べてしまいたいと思う。
美しいものは、欲望の対象とはなるが、食べようとは思わない。
私たちは、それがそのままそうあってほしいと望むのだ。
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美、じっと見つめていて、手を出そうとしない果実。
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動きのない劇だけが、真に美しい。
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私たちの中に、美しいという純粋で、確かな感じを起こさせるすべてのもののうちには、
現実に神が降臨するといっていい。
世界の中には、神の受肉といっていいようなものが存在するのであって、美はこのしるしである。
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美しいものが、物質の中での神の確かな臨在であり、
美しいものとの接触が、語の完全な意味においての秘跡である。
(重力と恩寵)
世界の秩序は美である。
(ギリシアの泉)
美しいものは観照に耐えうる。何時間でも注視していられる一体の彫像、一幅の絵画。
美しいもの、それは注意を注ぎうる何かである。
グレゴリオ聖歌。毎日、来る日も来る日も、数時間も同じ聖歌を歌うなら、
いささかでも至高の完全性に劣るものには我慢できず、おのずから斥けられる。
彫像。ギリシア人は神殿を注視した。私たちがリュクサンブール公園の彫像に我慢できるのは、それらを注視しないからである。
禁錮と終身隔離に処せられた囚人の独房にあっても醜悪とはならず、むしろその逆であるような一幅の絵画。
(カイエ1)
純粋さの満ちあふれた状態で、ものの美しさを見ること。
美。感覚を通して、霊的な完全さを感じさせてくれる素材(マチエール)。
魂の超越的な部分が否応なく現れるようにしてくれる素材(マチエール)。
美とそして神と接触を持つのは、同じ魂の機能すなわち超自然的な愛である。
私たちの中にある超自然的な愛こそ、美に執着させる器官である。
宇宙が存在するとの感覚は私たちの中にあって、宇宙の美の感覚に一致する。
存在の充実と美とは混じり合う。
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美しいものの中には、―たとえばも海や空など―“なにかしら削減できぬもの”がある。
肉体の痛苦にあるのと“同様”に。
同じ、どうしても無くしきれぬものが。知性に入り込めぬものが。
私たちとは別なものの実存。
美と苦痛との類縁関係。
(カイエ2)
私たちのうちに美について純粋で真正な感情を引き起こすものすべてに、神の実在的な現存がある。
世界には神のある種の受肉が存在し、美はこの受肉の刻印である。秩序づける「ロゴス」。
美は受肉の可能性を経験論的に証明する。ゆえに一流の芸術は本質的に宗教的である(このことを現代人はもはや知らない)。
一流の芸術は受肉を証明する。グレゴリオ聖歌の一旋律は殉教者の一命に匹敵する証言である。
ギリシア人は芸術をこのように考えていた。ギリシア彫刻。ギリシア彫刻における神の実在的な現存。
この現存の観照、これはひとつの秘蹟である。
科学と芸術は唯一無二の目的を有する。秩序づける「ロゴス」の実在を感知することだ。
科学と「ロゴス」の関係は芸術とオルフェウス教的な「エロース」の関係に等しく、「ロゴス」と「エロース」はひとつである。
科学の目的は美の「ア・プリオリな」探究である。
諸芸術における美の理論と諸科学における美の観照――これらふたつはいまだ未踏の道程をたどって結合するはずだ。
(カイエ3)
美的な感受性は少数の教養人の特権であると考えるのは誤りだ。
それどころか、美はあまねく認められている唯一の価値である。
一般民衆のあいだでは、賞賛の言葉として、美やそれに類する言葉がたえず使われる。
単に街や国や地域を誉めるときに限らない。たとえば機械のような、およそ予期せぬものにまで使われる。
一般に広まっている悪趣味のせいで、教養の有無に関わらず、これらの言葉はしばしば的外れの意味で使われる。
だがそれはまた別の問題だ。
美という言葉にはすべての心に語りかける力がある。これが肝心な点だ。
(カイエ4)
美しさと何らかの関連のあるものは、時の流転からまぬがれていなければならない。
美は、この地上においては永遠である。
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美しさこそ、この世において、唯一の究極的なものである。
カントがいみじくも言ったように、それはどんな終わりもない究極性なのである。
美しいものは、それ自体のほかに、どんな善も持たない。
それが私たちに現れるままに、その全体において、そうなのである。
私たちは、美しいもののほうへと、何を求めているのかも知らずに、向かう。
美しいものは、その存在自体を私たちに与えてくれるのである。
私たちは、それ以外のものを何も望まず、それをしっかりと持ち、しかもなお望み続ける。
それが何であるかは、全然わからない。
美しさのあとを追いかけたいと思うのだが、それはただ"うわつら"だけにしかない。
美しさは、いわば鏡みたいなもので、目指す宝物から私たちの願いを突き返してくるのだ。
美しさは、スフィンクスであり、"謎"であり、神秘であって、苦しいほどいらいらさせる。
私たちは、それを食べて養分にしたいと思う。
しかし、美しさは、目で見られるものにすぎず、一定の距離をおいてしか現れない。
人間の生活の中で一番痛ましいことは、見ることと食べることが二つの違った働きだということである。
ただ、天の彼方、神の住みたもう国においてだけ、この二つが同じ一つの働きとなるのであろう。
美は、それ自体のうちにどんな目標をも含んでいないものであるから、
この地上において、ただ一つの究極的なものとなる。
つまり、地上には、目標などというものは、少しもないのである。
私たちが目標だと思っているものもすべて、手段にすぎない。これは明らかな真理である。
お金は、物を買うための手段であり、権力は、命令を下す手段である。
私たちが、財宝と言っているものはみな同じであって、
その点が明白に現れているかいないかに多少の差があるにすぎない。
美だけが、ほかのものの手段ではない。
美だけが、それ自体においてよいものである。
たとえ、美の中にはどんな財宝もないように見えようとも。
美は、それ自体、一つの約束であって、財宝ではないように思われる。
つまり、美は、自分自身を与えるのであって、ほかのものを与えることは決してない。
しかも、美はただ一つの究極的なものであって、人間のはたすあらゆる努力の中に存在している。
もちろん、あらゆる努力は、ただ手段だけを追い求めている。
この世に存在するものはことごとく、手段にすぎないからである。
しかし、美は、その努力を、究極性で色どり、見事な開花を遂げさせるのである。
もしそうでなかったとしたら、人間は、その努力のうちに情熱を感じることもなく、
したがって、エネルギーを傾けることもありえないであろう。
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美の探求が、たとえば芸術とか科学において、最も高度に成就された場合でも真に美しいとは言えない。
ただ一つ、真に美しいもの、神が真にご臨在したもう唯一の美しさ、それは宇宙の美しさである。
宇宙よりも小さいもので、美しいものは何もない。
(神を待ちのぞむ)


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