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私たちは、知性でとらえられないもののほうが、知性でとらえられるものよりもずっと実在的であることを、知性のおかげで知っている。

(重力と恩寵)




知性は神秘のなかに入りこめない。しかし知性は、そして知性だけが、この概念をあらわす語の妥当性を評価できる。知性がこの任務をまっとうするには、他の任務に関わるとき以上に、いっそう鋭利で、いっそう透徹し、いっさい厳密で、いっそう志が高くなければならない。

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真の愛における知性の特権的な役割は、機能するまさにそま瞬間にみずから消去するという、知性の本質に由来する。真理にたどりつくための努力はできても、ひとたび真理が現存するや、私にはもうなにもできない。

知性ほど真に謙遜に近いものはない。現実に知性を行使するとき、自分の知性を誇ったり驕ったりはできない。知性を行使するならば、知性に執着できるわけがない。 自分がつぎの瞬間に知的能力をすべて失い、生涯そのままであったとしても、真理は存在し続けることを知っているからである。

(カイエ 2)




知性のなすべきは発見ではなく清掃である。知性は創意工夫のいらない仕事にむいている。

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もしも原生動物あるいは恒星に理性がそなわっていたなら、前者も後者もおのれの尺度に応じて、わたしたちと同様、この世界を完璧で無尽に美しいと考えるであろう。おそらく感覚的な宇宙はそんなふうにできている。そう信じるしかない。 望遠鏡や顕微鏡をもってしても、わたしたちはおのれの尺度をこえられない。眼にするものすべてが、定義からして、わたしたち自身の尺度に呼応するものであるから。

(カイエ 3)




知性、意志、人間愛といった人間の諸能力が限界につきあたり、それをこえて一歩も進めぬような臨界点にとどまるとき、超越的なものへの移行が生じる。

(カイエ 4)




言語のなかに幽閉された精神は、よくても獄中にあるにひとしい。さまざまな語が精神に同時に提示いうる関係性の量が、精神の限界である。部分的な真理から構成された閉塞空間のなかを、精神は移動する。空間に大小の差はあるが、精神はその外部にあるものを一瞥すらできない。

囚われている精神がおのれの虜囚状態を知らぬならば、その精神は誤謬のなかで生きている。

きわめてすぐれた知性の持ち主が、誤謬と虚偽のなかに生まれ、生き、死ぬこともある。かれらにとって、知性は善ではなく、利点でさえない。知的能力の差というものは、終身の独房生活を宣告された囚徒にとっての差と変わらない。独房が広いか狭いかの差にすぎない。おのれの知性を誇る知的な人間は、広い独房に入っていることを誇る囚徒に似ている。

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言語のなかに幽閉された精神はたんなる臆見を述べるにとどまる。

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いかなる知性であるにせよ、おのれの知性の限界に達し、その敷居をこえること、これだけがひたすら重要なのだ。村の「うすのろ」は神童と同程度に真理の近くにいる。ふたりとも壁ひとつで真理から隔てられている。みずからを無にしたのでなければ、極限のまったき屈辱状態に長くとどまったのでなければ、真理のなかへは入れないのである。

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最低の屈辱状態に落ち込んだ人びと、いっさいの社会的な敬意を受けぬばかりか、理性という人間の第一の尊厳さえも欠いていると万人にみなされ、物乞いの境遇よりもはるか下方へと落ち込んだ人びと、事実上かれらだけが、この世界にあっては真理を語ることができるのです。ほかの人びとはみな嘘をついています。

(ロンドン論集と最後の手紙)