



宇宙は、私たちが愛しうるものであるがゆえに、また、美しいものであるがゆえに、まさに故国なのである。
宇宙は、この世における私たちの唯一の故国である。
こういう思想が、ストア派の智恵の本質である。私たちには、天の故国がある。
しかし、ある意味では、天の故国は愛することが大へん難しい。
私たちには、それがどういうものかよくわからないからである。
また、ある意味では、特に天の故国をあまりに安易に愛しすぎることがある。
どうにでも自分に都合のいいように、それを想像しうるからである。
天の故国という名ばかりで、その実は架空のものを愛する危険がある。
この架空のものへの愛があまり強くなりすぎると、どんな徳行でも容易なものに思いなし、
あまり価値のないものに思い込んでしまう。
私たちは、この世の故国を愛したいものである。それは現実に存在し、愛に対して手応えを示す。
神は私たちに、それを愛するようにと与えたもうたのである。
それを愛するのは難しいことであるが、しかし不可能ではないようにと神はご配慮なさったのである。
私たちはこの地上にあって、自分が異邦人、根こぎにされた者、流浪中の者であるように感じている。
あのオデュッセウスもまた、眠っているうちに水夫たちに運び去られ、目が覚めてみると、
見知らぬ国へ連れていかれて、故郷のイタケーを、心も張り裂けるような思いで恋い慕ったのであった。
すると突然、アテーナーの神が、彼の目のまぶたを開け、彼は自分がイタケーにいるのに気づいたのであった。
これと同じように、たえず倦むことなく自分の故国を慕い、
カリュプソーやセイレーンにうつつをぬかしてその熱望を忘れるなどということのない人なら、
誰でも、ある日突然、自分がその故国にいることに気づくのである。
人間は誰でも、この世にあっては、何かの地上的な詩によって根づけをされている。
この詩が、天上の光を映し、人間の普遍的な故国とのつながりになっていて、
そういうつながりは多少の差はあれ、ひそかに感じられているのである。
不幸とは、この根が絶たれることである。
人間の立てる国は、その完全さの程度に応じてそれぞれ多少の差はあっても、
そこに住む人々の生活を、詩で包むものである。その国はみな、世界という国の像であり、反映である。
なお、その国が国家という形をとり、それぞれが故国(祖国)になりたいと熱望するようになれば、
その姿はますます、形の崩れた、汚いものになってくる。
しかしながら、物質的にも、精神的にも、国を破壊したり、
または、人間を国から追い出して、社会の屑のような存在にまで突き落としたりするのは、
人間の魂と宇宙とのあいだにある詩と愛のつながりを、すっかり断ち切ってしまうことになる。
人間を無理やり、醜さへの恐怖のうちに深く沈めてしまうことになる。まずこれ以上に甚だしい罪は、あるまい。
私たちは誰もが、ほとんど数えきれないほどと言ってよいたくさんなこういう罪に、
共犯として加担しているのである。
私たちはみな、理解しうる心さえあるならば、このことを血の涙を流して嘆かねばならないはずである。
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その不完全さ、それは地上の祖国に対するように教会に執着を持っておられることだと思います。
教会は実際あなたさまにとって天国とのつながりであると同時に、地上の祖国なのです。
あなたさまはその中で人間らしい熱烈な雰囲気の中に生きておられます。
ですから少し執着を抱かれることもほとんど避けられなくなるのです。
この執着は、たぶんあなたさまにとっては、十字架の聖ヨハネが語っているほとんど無限に細い糸であり、
切れない限りは金属の太い鎖と同じほど有効に、鳥を地上に引き留めるものなのでしょう。
どのように細くとも、この最後の糸は最も切れ難いものに違いないと想像します。
と申しますのは、糸が切れれば鳥は飛ばなければならず、それが恐ろしいのです。
しかしまた、その義務は絶対的なものです。
神の子らは、過去、現在、未来にわたって宇宙に存在するすべての道理をわきまえた被創造物を含めて、
宇宙それ自体以外のいかなる祖国をもこの地上において持つべきではありません。
宇宙にこそ、われわれの愛を要求する権利のある故里の国があるのです。
宇宙ほど大きくないものが、いくらでも拡大されうる諸義務を課すのですが、
その中に愛する義務は見当たりません。少なくとも私はそう信じます。
知性と関連のあるいかなる義務もそこにはないと私は深く信じています。
(神を待ちのぞむ)


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