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救いをもたらす働きは、どんな行動にも似ていない。 それは、ギリシア語では『ヒュポモネー』であるが、『パティエンティア』と訳すのは、あまり適当ではない。 それは、待つことであり、じっと動かず、忠実に待つことである。 それは、いつまで続くか不明であるが、どんな打撃にも動かされることなく待つことである。 主人の叩く音が聞こえたら、すぐに開こうと戸のそばで耳を傾けている奴隷の姿は、その最もよい象徴である。 その態度を崩すくらいなら、むしろ飢えと疲労で死ぬ覚悟ができていなければならないのだ。 仲間が彼を呼び、彼に話しかけ、彼を叩いても、彼は頭を向けることすらしてはならないのだ。 もし誰かが主人は死んだと伝えてきて、彼もそれ信じたい気になっても、彼は身じろぎもしないであろう。 主人が彼のことを怒っており、戻ってきたら彼を打つかもしれないと言われ、そんな気がしても、やはり、身じろぎもしないであろう。

自分のほうから探求するのは、単に愛を傷つけるばかりでなく、愛の法則にならった法則をもつ知性をも傷つける。 幾何の問題一つを解くにも、ラテン語やギリシア語の文章の意味を解釈するにも、 それが精神のうちに現れてくるのを、ただじっと待っていなければならない。 まして、何か新しい科学上の真理とか、美しい詩句などの場合は、一そうそうであろう。 探求は、あやまりに導く。真の善なら、どんな種類のものでもそうである。 人間は善を待ち望み、悪を遠ざける以外のことをしてはならない。 人間の条件は、裏返しをその本質とするが、あらゆる領域にわたって、真正の徳は、少なくとも表面上、何か否定的(ネガティブ)なものである。 しかしながら、善と真理をこのように待つことは、あらゆる探求にまして充実した何ものかがある。

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その人たちは神のほうへは向いて行かない。まったき闇の中にあって、どうしてそんなことができよう。 神ご自身が、彼らに対して適切な導きを与えたもう。しかしながら神はそんなに早々とは、彼らに顕れたまわない。 彼らは、目を背けず、耳を傾けるのを止めず、じっと動かずにしていなければならない。誘惑や脅迫に耳を貸さず、 さまざまな打撃に耐えて微動だにせず、自分には何とも定かにはわからぬものを待ち望んでいなければならない。 ながいあいだ待ち望んでいて、ついて神がおぼろげにご自身の光を予感させたもうことがあったり、 また、ご自身を啓示したもうことがあっても、一瞬間のことにすぎない。 ふたたび、注意をこらして、動かずにじっとしていなければならない。 身じろぎもせず、ただ願望があまりにも強いときにだけ、呼び声をあげて、待ち望んでいなければならない。

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愛は、魂の目である。しばらく立ち止まって、待ち、聞き入ることである。

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動かず、じっと「エン・ヒュポモネー」(これは、「パティエンティア」よりもはるかに美しい言葉です)してまいりました。 今やっと、私の心は永遠に(そう私は願っておりますが)、祭壇の上に置かれた聖体の中に運び込まれてしまいました。

(神を待ちのぞむ)




私がついに神を愛することに同意するのを、神は忍耐強く待っている。
直立不動で、黙したまま、一片のパンを恵んでくれそうな人の前にたたずむ物乞いのように。時間とはこの待機である。

時間とは、私たちの愛を乞い求める神の待機である。星辰、山麓、海原など、時間を想起させるすべてが神の嘆願を伝えている。 待機するときの謙虚さは私たちを神に似たものとする。

神は善でしかない。ゆえに神はそこにたたずみ、黙って、待っている。 進み出たり語りかけたりする者は、わずかであっても力を行使する。善でしかない善はただ在り続ける。

廉恥を知る物乞い、これが神の表象(イマージュ)である。

謙遜とは、魂と時間のある種の関係である。つまり待機(アタント)の受諾である。 それゆえ社会において劣位者の刻印は待たされることだ。権力者なら「あやうく待つところだった」というだろう。 しかし、万人を等しく詩情で包みこむ儀式にあって、待機は万人のものである。

芸術とは待機である。霊感とは待望(アタント)である。
待機(待望)のうちに結実する(「マタイ」十七・二十)。

謙遜とは神の待機(待望)にあずかることだ。完全な魂は、神自身の沈黙、不動性、謙遜に匹敵する沈黙、不動性、謙遜をもって善を待ち望む。 十字架上に釘づけにされたキリストは「父」の完全な似像である。

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哲学の固有の方法とは、解決不可能な諸問題をその解決不可能性において明晰に構想し、 その後なにひとつ付加することなく、ひたすら、倦むことなく、何年も、なんの希望も抱かず、待望のうちに観照することである。 この規準にしたがえば哲学と呼べるものはあまりない。あまりない、ではまだ言いすぎだ。

知性、意志、人間的な愛といった人間の諸能力が限界に突きあたり、それをこえて一歩も進めぬような臨界点に留まるとき、 超越的なものへの移行が生じる。しかも後退するでも回避するでもなく、待望のうちに自分がなにを願い求めているのかさえ知らずに。

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無言で忍耐強い待望にまさる謙遜な態度はない。主人のいかなる命令にも、あるいは命令の不在にさえも、心構えのできている奴隷の態度である。

待望とは能動状態にある思考の受動性である。
待望が時間を永遠に変容させる。

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待ち望むことは受動性の極みである。時間への従順である。私たちが時間に完璧に服するならば、神は永遠を送らざるをえない。 否定的な試練。果実を食べない、扉を開けない(…)。無窮の仲介によって時間から永遠へと移行すること。
無窮の苦しみや剥奪を受け入れることは永遠への扉である。

(カイエ4)